『大人のいない国』ー内田 樹

●惨状と堕落を嘆く人々ー③

 

この「広義の日本人」に「愛国者」たちは「狭義の日本人」を対抗的に立てる。「愛国者」たちと政治的意見を同じくする人々、それが「狭義の日本人」である。この二つの概念を同じ日本語によって指称することで、彼らは論理の混乱を意図的に引き起こそうとする。


例えば、私は一部の「愛国者」たちからは「日本人ではない」と批判されることがある。

私は法律的には間違いなく日本人であるから、「内田は日本人ではない」というときに彼らが使う「日本人」は法制上の「日本人」とは別の概念である。

それは「日本人であれば誰もが望むはずの政治形態」(と彼らが認定したもの。例えば、天皇制や日米同盟)を支持する人を指称する。私は「日本人であれば誰もが持つはずの政治思想や心性」なるものを私の同意抜きに決定されることを喜ばない。すると、私のような人間は「狭義の日本人」には算入してもらえないのである。


一方、この「愛国者」たちが「日本人は堕落した」と総論的に語るとき、そこで言われる「日本人」には彼ら自身は含まれてない。彼らは「堕落」を逸れた例外的な選良なのである(彼らもまた他の日本人同様に「堕落」しているなら、その所論も当然多くの過誤を含んでいるはずだからである)。


だが、どうして彼らだけが例外的に「堕落」を逸がれて、正気を持(じ)していられるのか、その理由についても私は納得のゆく説明をかつて聴いたことがない。