『人間というもの』ー司馬遼太郎
●江戸と明治ー①


江戸的身分制度は、ほとんど数学的としかいえないほどに多様かつ微細に上下関係の差が組み合わされている。

人びとは相手が自分より上か下かを即座に判断し、相手が下ならば自分の体まで大きく見せ、上ならば体を小さくして卑屈になる。そういう伸縮の感覚が、江戸社会に暮らす上で重要になっていた。
 
「能力」
というだけでは、世の中は廻らない。それが、江戸封建制というものであった。武士は門閥や身分制の上にあぐらをかき、商人は株仲間という特権の上で安住して、関心と精力の多くを、武士なら組頭の気受けをよくし、特権商人なら役人との関係を円滑にするという社交に費やしてきた。
このように品良く収まった秩序社会にあって目覚ましく能力を発揮するというのは、それ自体が下品な印象を受け、いかがわしく思われ、出る杭は打たれるという当時の諺(ことわざ)が示すように、結局は自滅することが多い。
 

江戸期の幕藩体制というのは、ただそれ自体が存在するだけを目的としていた。藩機構のさまざまな部署も日常に事無なからんことのみを目的とし、藩人個々の暮らしの意識も、先祖から相続してきた家禄・家格をつぎの代に譲ってゆくことだけを目的としていた。封建制というのは、そういうものであった。

 

江戸体制について触れたい。徳川幕府というのは諸事自然の体を好むところがあり、変革を好まなかった。郷村についてもそうだった。基本的に郷村の制度を変えたということがない。

日本の郷村の過ぎ越しを振り返ってみると、古代、稲作がこの島に入ったころは大権力が絶対の垣を乗り越えて入ってくることは少なかったろうが、鉄器農具の普及が古墳時代的大土豪を成立させ、やがて律令制の輸入と共に天皇家に統一された。郷村は天皇家とその側衆(そばしゅう)である貴族・高官および官寺に隷属し、奴隷の解釈をきびしくすれば、全体が奴隷であった。源頼朝の鎌倉体制は、この制度を半ば以上断ち切った。郷村を天皇や貴族から切り放して、「武士」という地主の土地所有権を安定させた。