『街場の読書論』⚫️死ぬ言葉ー①-内田 樹

●死ぬ言葉ー①

 

「美的生活」というのは別に書画骨董を愛玩したり、歌仙を巻いたり、文人墨客と賺(すか)した話をすることではない。そうではなくて、「目の前にあるこれは、いずれ消え去って、あとをとどめない」という人事万象の「無常」を、その「先取りされた死」を「込み」で、ご飯を食べたり、働いたり、遊んだり、つくったり、壊したり、愛したり、憎んだり、欲望したり、諦めたりすることではないかと私は思う。


なぜ、「生け花」と「プラスチックの造花」の間に美的価値の違いがあるかということを前に論じたことがある。

もしも、造形的にも、香りも、触感も、まったく同じであったとしたら、「生きた花」と「死んだ花」の本質的な差はどこにあるか。差は一つしかない。「生きた花」はこれから死ぬことができるが、「死んだ花」はもう死ぬことができないということだけである。


生美的価値とは、畢竟(ひっきょう)するところ、「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲(す)まっている。

私たちが死ぬのを嫌がるのは、生きることが楽しいからではない。

一度死ぬと、もう死ねないからである。

すべての人間的価値を本質的なところで構成するのは「死」である。「可死性」というものがあらゆる人間的価値の中心にある。

私たちが定型的な言葉を嫌うのは、それが「生きていない」からではない。それが「死なない」からである。


個人の身体が担保したものだけが「死ぬ」ことができる。

「世論」は死なない。個人としての誰が死んでも、「世論」は死なない。それは「プラスチックの造花」と本質的には変わらない。だから、世論は私たちに深く、響くようには届かない。

深く、骨の中にまで染み込むように残るのは「死ぬ言葉」だけである。