『私を生かした一言』-外山 滋比古英文学者

●フェスティナ・レンテ(ゆっくり急げ)
ーーー「急がばまわれ」は万国共通の仕事術ー②


それに諺はどこか血が通っているあたたか味が感じられる。真理をついているのだが、まっこうから矛盾するようなことを平気でいう。「人を見たら泥棒と思え」という人間性悪説を、主張するかと思えば、「渡る世間に鬼はいない」と一転して性善説をとる。「三人寄れば文殊の知恵」とやるかと思うと、「船頭多くして、船、山に登る」と澄(す)まして言う。まことに端倪(たんげい)すべからざるものがある。まるで逆なことを言っていながら、それぞれに当たっているのだから面白い。

 

人間は狭いところに住み、よそには通じないような習俗の生活をしているけれども、諺は不思議とユニバーサルで国境を軽々と越える。さきの「船頭多くして、船、山に登る」にしても、各国に同工異曲のものが見られる。イギリスでは「コックが多すぎるとスープができそこなう」となり、イタリアでは「カラスがたくさん鳴きすぎると太陽は昇らない」(イタリアでは朝カラスが泣かないと日が出ないとなっているらしい)イランには「産婆さんがふたりいると赤ん坊の頭が曲がる」というのがあり、エジプトでは日本そっくりの「ふたり船長のいる船は沈む」という。

 

こういう似たような諺が世界中に散在しているのは、お互いに相談した結果ではないのは、はっきりしている。人間は処により時代によりずいぶん違った生き方をしているようだが、心の深部は共通らしい。それを示しているのが諺である。なにごとも国際化といわれる今の時代にもう一度見直されて良いのではあるまいか。

 

先にも述べたように諺好きだから、折りにふれて諺が頭に浮かぶけれども、中でも気に入っているのが、「隣の花は赤い」である。

われわれ人間の判断は距離に左右される。

すぐ近くにあったときにはなんとも思わなかったのが、遠くへ行ってみると急にかけがえのない大切なものであったことがわかる。

 

うるさいばかりだとうんざりしていた親に死なれてみて、初めてしみじみと有り難さがわかる

という風樹の嘆きはその一例である。

うちの庭にも花が咲いているのに、うちの花なるが故に、さほど美しいとは感じない。

隣の花は、うちの花でない、よその花であるというまさにその理由で、実際以上に美しく見える。

それを本当にうちの花よりも美しいときめてしまうのは危険である。距離の与えている臨時の効果に惑わされてはいけない。そういう微妙な心理を教える心にくい諺である。

 

人のしていることが美しく見えたりすると、これを心でつぶやくことにしている。