『世に棲む日日ー二』ー司馬遼太郎

●松下村塾の人々ー①

 

富永有隣というのは、この世で人とともに生きていられないほどに心のねじけた人物で、おのれのみを高しと思い、世間のどういう人物でも頭ごなしに”あほう”と決めてかかっていた。彼が藩の獄舎に入っていたのも、重大な犯罪があったというようなものではなく、彼が彼の家族、親類、職場(御膳部役)に存在しているというだけで人々の心が暗澹(あんたん)としてきて、職場では日常の業務がまわらなくなるほどであったから、親類一同が藩に頼み込んで牢に入れてもらった。そのかわり親類一同が金を出し合って富永の食費を藩に支払わねばならない。いわば有料の囚人であった。人間社会から隔離せねばならぬほどの”ひねくれ者”といえば、おおよそその心のねじけ方のすさまじさが想像つくであろう。

 

松陰という青年のおかしさは、こういう稀代の”ひねくれ者”が苦にならないというところにあった。彼は富永を牢出しするために奔走し、富永が出てくると早速、松下村塾の教師にした、ということはすでに触れた。それも、恩をほどこしたというようなものでなく、

”しん”から富永の来塾を有り難がり、

---富永が来て、塾が興った。

と本気で思っており、他国の友人に松下村塾のにぎわいを知らせている手紙にも、

「富永、厳然としてこれを主(つかさど)る」

と、うれし気に書いている。”ひねくれ者”の富永も、松陰がこのように心から嬉しがっている以上、得意の”ひねくれ”を持ち出すことができなかったであろう。ついでながら副塾長の富永も無報酬であった。松陰にも家禄があり、富永にも家禄があったであろうからである。

 

もっとも松陰は富永有隣がどういう異常性格の持ち主であるかは知り抜いていた。

「自ら見ること甚だ高く、群小を憎むこと仇敵のごとし」

と、松陰は書いている。松陰は他人に対しては身もだえするほどに優しい男であったが、彼のこの良き協助者は、魂がつねに執念でくすぶり、他人といえばすべて仇敵だと思っている男だった。

その富永有隣は、松陰よりも長く生きた。それどころか、明治三十三年、八十歳まで生きた。

彼は維新後、性懲りも無く反政府活動をし、おたずね者になり、明治十年から七年間、東京の石川島監獄につながれた。人生のもっとも重要な機関、彼はつねに獄にいたことになるであろう。

出獄後、彼は山口県周防部の熊毛郡城南村に住み、塾を開いて子どもを教えたが、口を開けば、

「リスケなど世渡り上手の連中は、みな華族になって威張りくさっておるが、あれらはみなニセ者じゃ。本物はわし一人しかおらぬ」と言い、酔い狂っては人に毒づいた。

 

「富岡先生」という題名の短編が、明治の小説家の国木田独歩(1871~1908)にある。この富永有隣がモデルであることが明らかな作品で、世に捨てられて田舎塾の先生をしている老人のすさまじい狷介(けんかい)ぶりを、作者自身、愛情をもって書いている。

 

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