『常識の非常識』ー山本七平

●社会進歩のあとの憂鬱ー①

 

ある席で、「日本は学歴社会か否か」が話題になったが、それを聞いているうちに、同じ言葉の内容が時代によって随分変わってしまうものだと思った。というのは、私が子供のころにいわれた「学歴社会の弊害」という言葉の内に込められた不満ないしは不合理の指摘は、この議論では全く感じられなかったからである。では私の子供のころの「学歴社会」という言葉にはどういうニュアンスが込められていたのか。

 

私の時代の義務教育は六年生制の尋常小学校だけであり、農繁期の家業の手伝いなどで、それさえ満足に履修できず、また弁当も持たずに登校する生徒もいるほど、日本は貧しかった。この時代に大学まで行ける者は、学力のほかに、その家庭が子供を大学にやるだけの経済力がある特権階級であることが、ほぼ絶対的な条件であった。そこで「俺は小学校のとき常に一番で級長だった。しかし家が貧乏だったので上の学校に行けず、そのため社会の下積みにいる。ところがあいつは俺よりはるか下だったのに家が裕福だったから大学を出て、あんなに出世している。能力もないくせにその学歴だけで、一方は上級職・高収入、俺は下積み・低収入は不公正だ」というのが、「学歴社会の弊害」であった。

 

「十で神童、二十で才子、三十過ぎれば並の人」という言葉があるから、小学校の神童がそのまま継続するわけではないであろうが、経済的な理由で上級学校に進めなかった者はそうは思うまい。そこで否応なく生ずるのは、学歴だけで人を評価するのは公正ではないという考え方である。

この時代の人に、では経済力に関係なくだれでも大学に行けるようになったら、そのときは、社会の階層構成原理が「学歴と成績のみ」となったら、あなたはそれを「公正な社会と思うか」と問えば、「それはもちろん公正で、そうあるべきだ」と答えたであろう。

 

そこで、さらに「そういう社会になったら、学歴社会への不満は消えると思うか」と問えば、「もちろん消える、もしそれで不満を持つものがいれば、それはおかしい」と言ったであろう。

「なぜ、おかしいか」と私が問えば、その人の答えは次の通りであっただろう。「能力がありかつよく勉強し、試験を受ければ当然受かる者が経済的理由でそれができない。それは公正でもなければフェアな競争でもない。しかし全員が経済的に関係なくその競争に参加し、能力がありかつ努力する者が優位に立ち、それがそのまま社会の階層構成原理になれば、それが当然ではないか。努力もせず勉強もしない怠け者が不満を持つなら、それは不満を持つ者がおかしい」と。

 

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