『文人悪食』ー嵐山光三郎
●正岡子規ー⑥
 
「さあ静かになった この家には余一人となったのである 余は左向に寝たまま前の硯箱を見ると四五本の禿筆(ちびふで)一本の検温器の外に二寸ばかりの鈍い小刀(こがたな)と二寸ばかりの千枚通しの錐(きり)とはしかも筆の上にあらはれて居る さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起こって来た 実は電信文を書くときにはやちらとしていたのだ しかしこの鈍刀や錐ではまさかに死ねぬ 次の間へ行けば剃刀(かみそり)があることは分かって居る その剃刀さへあれば咽喉(のど)を搔(か)く位はわけはないが悲しいことには今は匍匐(はらば)ふことも出来ぬ 己(や)むなくんばこの小刀でものど笛を切断出来ぬことはあるまい 錐で心臓に穴をあけても死ぬるに違ひないが長く苦しんでは困るから穴を三つか四つかあけたら直ぐに死ぬであらうかと色々に考へて見るが実は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出来ぬ 死は恐ろしくはないのであるが苦が恐ろしいのだ 病苦でさへ堪へきれぬにこの上死にそこなふてはと思うのが恐ろしい」
 
子規は錐と小刀の絵を描いて自らの心をおさえるのである。子規の精神は自分の肉体を飼育しようとしている。子規にとって肉体は他者であり、実験動物を観察しようとする尋常でない気魄がある。であれながら、苦しむのはほかならぬ自分であり、肉体は病床六尺の上にある。それをもて遊んでやろうという野心だけが立ち上がっている。
子規はスケッチをする。糸瓜、菓子パン、病室よりの風景、朝顔、夕顔、と目に入るさまざまを写生し、「カン詰ノ外皮ノ紙製ノ袋」に脱脂綿を入れ、歯茎の膿(うみ)を拭う。『仰臥漫録』では、事物をスケッチする自分を観察する。自分の飢餓を写生しようとする。「仰臥」とは俯(うつぶ)すことができず仰向けのままの状態であり、麻酔剤を用い、大量の便を出しながら、その自分を写生するのである。