『文人悪食』ー嵐山光三郎
●宮沢賢治ー⑫
 
農学校や羅須地人協会での農業改革運動は失敗に終わった。賢治個人の人格を慕う学生はいても、農業政策は賢治個人の手に負えるものではない。羅須地人協会で育てたトマト、レタス、セロリといった新野菜は、近隣の農民にはただ珍奇なものとして映り「金持ちの息子の道楽」として蔑視された。賢治はそういった周囲の目を意識して、より農民になろうとしたが、その理想が現実の農業の変革には結びつかなかった。

してみると、「雨ニモマケズ」の詩は、進軍ラッパのような意志を秘めつつ、挫折の詩であり、農業改革者としての賢治の敗北自戒の独白であったことが見えてくる。病気の子には看病してやり、疲れた母には稲の束を負ってやり、死にそうな人には、怖がらなくていいと言い、ケンカにはつまらないからやめろと言う。賢治にできたことは、ここまでである。

「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とされている行は、手帳には、はっきりと「ヒドリ」と書いてある。「ヒドリ」は「日取り」で、「日雇い」の意味ではないか。あるいは、なにかの予定の「日取り」で「葬式の日取り」かもしれない。賢治はこのメモでも、間違った部分は七ヵ所を自ら訂正している。誤字は多いが博識の人である。賢治が自ら「ヒドリ」と書いたのだから、「ヒドリ」とはなにかを調べようとするのが後世の人の礼儀というものだ。それをせずに勝手に「ヒデリ」と決めてしまうのは、賢治という詩人に対する崇拝と蔑視があったからではないだろうか。人は詩人を尊敬しつつ、片方の目で低く見る。

それにしてもである。「一日ニ玄米四合」というのは食い過ぎではないだろうか。私のような大食漢でも一日ニ合が限界だ。これにより賢治は粗食派ではあるが、人並みはずれた大食い男であることがわかった。