『文人悪食』ー嵐山光三郎

●岡本かの子ー⑧
 
話はこうである。
東京の下町と山の手の間にある鮨屋「福ずし」の娘ともよは、いろいろの変わった客を見慣れていたが、常連のなかで、五十歳過ぎの濃い眉がしらの男が気になってしかたがない。
地味で目立たない客で、謎めいた目の遣り処があり、憂愁の蔭を帯びている。ともよは、ふとしたことで、この男と鮨にまつわる因縁を聞くことになり、そのひそやかな内奥を知ってから、男はぷっつりと店に来なくなる。読み終わると、目の前で鮨の握りが白々とした余韻をたたえてコロンと倒れるのである。鮨の小説では志賀直哉の『小僧の神様』があるが、それと双璧をなす傑作料理小説である。ざくろの花のような色の赤貝や、二本の銀色の縦縞(たてじま)のあるさよりが、話のなかでピチピチとはねている。林房雄は、この作品を「鮨屋の娘の形のとらえがたい恋は美しい命へのあこがれである」と絶賛した。
 
『家霊』はどじょうの話である。山の手で、繁盛しているどじょう屋の娘くめ子は、母にかわって帳場に坐るようになる。そこへ老人の彫金師が来てごはんつきのどじょう汁の出前を注文する。この老人はいつもつけで食べており、それが百円になっても支払わない。古くからいる店の者は、すげなく追い返す。そこから、その老彫金師の魔術的弁説と巧みな身ぶりの職人話が始まり、くめ子は老彫金師にほだされて、また、つけでどじょう汁を食わせるはめになる。それ以降、老人はだんだんとやせ枯れながらも、毎晩必死にどじょう汁をせがみに来る。
 
ただそれだけの話である。読む者がくめ子の立場に置かれれば、やはり、くめ子同様、老彫金師の呪縛にあたってたかりに応じるだろう。背後には、どじょう屋に棲(す)みつく家霊がよどみ、くめ子の母もまたその薄暗い女の諦念(ていねん)を呼吸し、払うはずがないつけで食わせていたのである。この老彫金師の気迫にはただならぬ妖気(ようき)があり、それがこの小説の核である。