『人間通でなければ生きられない』-谷沢 永一
●戦後日本は「三等重役」社会だった-②
✪だがこれは表通り、正面、うわっつらの目立った部分。これとは逆にこうした言論が新聞・テレビ・雑誌を賑わしていても、完全に追従できず、それどころか、なにか変だなあと首をかしげつつ、「理論的にはそうかもしれないが・・・・・・・」とつぶやきつつ、この下半句を空白のままに置きっ放しにして、口を糊(のり)するために各々の日々の生活、仕事にいそしんだ人々が大部分。つまり言論では少数だが、数から言えばその方が多数派であった。
戦後日本は特殊な二重構造、声高に日本ダメ説を唱えるグループと、その声を聞きながら黙々と言あげもせず、汗を流して働いたグループから成立する二重構造の国であった。
言あげせぬグループのカシコイところは、つまらぬ言い争いはせずに、黙々と高度経済成長の担い手として働いて、現在の位置にまで日本を引き上げたこと。怒濤の如きイデオロギーで対決をしなかったことであった。これがヨーロッパなら苛烈なイデオロギー闘争が必ず起きた筈。論理には論理をもってお返しするのが常識、日々のいとなみ、当然の成り行きだから、これらの社会主義理論、マルクス主義理論、人間疎外論に対して、高度経済成長を支え、応援し、裏付ける理論が出され、激しい言論闘争が起きたこと必定なのである。
しかし、高度経済成長の担い手たち、一般庶民たちは、言あげしなかった。伝統的な”言あげせぬ美風”が、彼らの常識と信念を支えた。
