『三島由紀夫語録』ー秋津 建
●「虚栄」について


虚栄というものを人間の浅はかな精神的お化粧のように考えている人があるが、それこそ浅はかな考えである。こういう迷信がある。誠実派のインテリのもちやすい迷信で、虚栄心の殻を脱げば誰も彼もざっくばらんな誠実素朴な人間同志だと思い込むことである。ところが「ざっくばらん」という奴も、男の世界の虚栄心の一つだ。

 


右の抜粋文に三島らしさを見出すことはたやすい。---逆説。インテリというものに距離を置いた姿勢(インテリに対する揶揄)。断定口調。比喩。

 

一方、三島氏にはまたこんな文章もある。「まじめで良心的なのも思想だが、不まじめで良心的という思想もあれば、又、一番たちの悪いのに、非良心的という思想もある。私はこの第三の思想にだけは陥りたくないと、日頃自戒している者である。」(『行動学入門』あとがき)『行動学入門』には、「行動学入門」「おわりの美学」「革命哲学としての陽明学」が収められており、「おわりの美学」を除く二者は、「まじめで良心的な思想」に属し、「おわりの美学」は、「不まじめで良心的という思想」となろう。

 

三島氏自身が非常にまじめな生活者であったことは多くの人々の語るエピソードに明らかである。就中(なかんずく)、仕事上の几帳面さは、あるいは性格学上問題とされるところとなるかもしれない。

真面目、誠実。---とは何だろう。埴谷雄高氏は「文藝」昭和50年9月号誌上での吉本隆明氏との対談でこう言っている。「(前略)三島由紀夫はたいへん真面目ですね。(中略)その真面目の最後の証明は死に方です。崇高とインチキの共存がない真面目さですね。僕は三島君と座談会で、死について語ったのですが、ほんとうに真面目でした。」この見解は、三島氏の生も死もひっくるめて三島氏を評価する一つの典型的な立場をあらわしている。真面目さ及びその証明に関する三島氏の見解も、あるいはこれかもしれない。