『弥縫録』-陳 舜臣

●圧巻

 

試験地獄の元祖は中国である。かっての中国の読書人は「科挙」の試験を受けて合格することが、人生最大の目標である。

科挙に合格して「進士」になりさえすれば、あとはバラ色の人生が待っている。進士になるには、「挙人」になっておかねばならない。何度か下級の試験に通り、初めて挙人となる。清の時代では3年に一度、全国の挙人を北京に集めて、会試が行われ、これに合格すれば進士と称された。挙人になるのさえ至難である。

挙人を出した家は、その門に高い旗竿のようなものを立てることが許された。「名誉の家」ということである。そんな名誉の挙人が1万人か2万人も集まって、進士に合格するのが2、3百人にすぎない。

 

進士などは一般の人にとっては雲の上の人といえた。会試のトップ合格者を「会元」と呼ぶ。だが会試に合格してもまだ上の試験がある。殿試がおこなわれる。皇帝臨御のもとに、会試に合格した2、3百人の俊才がもう一度試験を受け、この試験で順位が決められる。トップ及第者が「状元(じょうげん)」、次席が「榜眼(ぼうがん)」三位が「探花(たんか)」と呼ばれる。状元にでもなれば、街中が沸き立つほどで、まるで天下を取ったようであった。

しかし、われわれ凡庸の徒が大いに安心してよいのは、最高の条件に恵まれた状元で、本当に天下をうごかした人物は、きわめて少ないことである。よく活躍したのは、上の下とか、中の上といった連中だった。林則徐、曾国藩、李鴻章など、日本でもその名を知られた政治家に状元はいない。左宗棠や袁世凱などは進士にさえ及第していない。どちらも挙人にすぎなかった。

 

進士に及第した二、三百人の答案が積み上げられると、ちょっとした高さになった。状元、すなわちトップ及第者の答案は、その答案の山の一番上に、うやうやしく乗せられるしきたりであった。一人の答案を一巻とする。三百巻の答案の上に乗った状元の答案はまさに、---巻を圧す、と形容されてよいのである。「圧巻」ということばは、この科挙のしきたりから出たものである。これといった由緒正しい古典に出ていることばではない。