『明治という国家』-⑰ー司馬遼太郎

●江戸日本の無形遺産”多様性”

 

幕末、土佐派より遅く、打倒徳川軍に参加したのは、三十五万七千石の外様大名肥前佐賀藩鍋島家でした。

打倒徳川の第一戦である鳥羽・伏見の戦いのときは、無論肥前佐賀は参加していません。静かな藩でした。

 

その上、佐賀藩は伝統的に二重鎖国でした。日本という国家的鎖国の大桶の中に、も一つ藩という小桶の鎖国があって、佐賀藩士は他藩士とつきあうということをしません。幕末、京都に各藩の外交役(正称は周旋方)が集まって大いに論じ、大いに情報を探りあったのですが、その時期も佐賀藩は藩是として人を出さず、それを禁じていました。自然、佐幕とか倒幕とかいった議論や情勢に疎かったのです。

 

薩長の方から、佐賀を誘ったのです。というより、懇請したのです。佐賀を誘わなければ、全国規模に拡がるであろう革命戦に勝つことがむずかしかったのです。

それは、佐賀藩が、日本でただ一つ重工業をもつ藩だったからです。それは藩主鍋島閑叟のモノマニヤックなほどの情熱によるものでした。今でいえば佐賀県は日本の都道府県のなかでも面積も小さく、貧乏でもある県ですが、封建割拠--つまり自治--というものの面白さは、意外な花を開かせるものですね。佐賀は、科学技術という点で、輝くような藩でした。