『世に棲む日日ー二』ー司馬遼太郎
●砲声ー③


横に、臥床がのべられている。晋作はそれをちらりと見て、

「ところがむごいことだ。」

と、いった。なぜこの男はこうであろう。

---えっ。

お雅は、息をわすれた。

「どこかへいらっしゃるのでございますか」

「わしの頭をみよ」

わざわざ言われずとも、お雅には見えている。頭蓋骨のかたちがそのまま露呈しているというのは、女の目からみて、あまり艶やかなものとは思えない。

 

「出家したのだ。名は西行法師にあやかるべく、東行とつけた。

西行という法師を知っているか」

「歌」と、お雅はうろ覚えである。

「左様、歌よみ」

 

西行は鎌倉時代の歌僧である。はじめ鳥羽上皇に仕える北面の武士で、弓の上手であったが、二十二歳のときある劇的な事件をおこし、発心し、髪をおろして僧になり、泣きすがる子を縁側から蹴落とし、漂白の旅に出た。生涯漂白した。

 

「わしも蹴落とす」

といってから、晋作はからっと笑い、それはうそだ、が、出家である以上そもじとはこの床では寝ぬ。

「起きていらっしゃるのでございますか」

「寝る寝ぬの意味はべつの意味だ」

「ああ」

お雅はまゆを曇らせ、

「なんと馬鹿なあるじを持ったことか」

と、この時ほど、その長い一生で思ったことはない。