投稿写真

 

『ローマの哲人・セネカの言葉』-中野 孝次
●神は君自身の内に


君を道徳的に善になしうるものは、すべて君の内にある。

神だの仏だのと言うと、人はそれを外に求める。そう言って存在が自分の外に形としてあって、それをあがめるのだと思いがちだ。が、神も仏も君の外に対象としてあるのではない、すべてすでに君自身の内に備わっている、それを養いさえすればいいのだ、というのがセネカのこの言葉である。


17世紀ドイツの宗教詩人アンゲルス・ジレージウスの詩にもこうある。

「立ち止まりなさい、あなたはどこに向かってゆくのか。天国はあなたの中にある。他の場所に神を求めれば、あなたは永遠に神を見失ってしまう。」

神は跪拝(きはい)の対象として君の外におわすわけではない。汝が欲するものはすべてすでに汝の内にあるというこの考え方は、どんな哲学、宗教にも共通する。神は外にでなく、すでに汝の中にいる、というのだ。

このことでわたしは、唐代のすぐれた禅僧"馬祖道一" と、彼の許に入門にやってきた修行僧"大珠慧海" とのあいだに交わされた問答を思いだす。


馬祖が、おまえは何のためにここへ来たのかと問い、慧海が仏道を学びに来ましたと答えると、馬祖は言った、「わしのところに仏道などとそんなものはない。自家に宝蔵があるのに、家を棄ててよそをうろついて何になる」。

そこで慧海が、では慧海の宝蔵はどこにありますか、と問うと、馬祖は一喝して言った、「今わしに向かって問うている者、これぞ汝の宝蔵ではないか。一切具足して、さらに欠少なし、使用自在である。それがあるのによそに向かって求めて何になる」。

この一言で慧海は大悟したというのだが、セネカもジレージウスも馬祖も、みな同じところを指して言っているのだ。