『空海・無限を生きる』-松長有慶(高野山大学・学長)

●理趣釈経(りしゅしゃくきょう)の借覧を拒否-③

 

その前年の弘仁六年には、空海も、安行(あんぎょう)、康守(こうしゅ)などの弟子を甲斐、常陸、下野(しもつけ)、上野(こうずけ)などの東国、さらには筑紫などの西国に派遣しています。派遣された弟子たちは、あちこちで、密教経典の書き写しは、密教を広めるためには強力な手段であるわけです。まず経典を写し、そのことによって密教に対する関心を示し、そして正しい法を受け継ぐことによって、密教が日本中に広がることを目指したのです。

 

ですから、弘仁六年ごろから、空海も弟子たちを使って密教経典の書き写しの依頼に応じ、東国や九州に広めようとしたのでした。下野や筑紫などには戒壇(かいだん)があって、仏教の戒を受ける拠点となるところでしたから、仏教に関心をもつ人たちがこういう国々に集まっていたと思われます。このように、密教や天台法華宗を流布(るふ)することでお互いに忙しくなってきて、交流が途絶えたということも考えられます。