『歴史のなかの邂逅3』ー司馬遼太郎
●維新のあと始末ー⑥
 
彼は征韓論の巨魁でしたが、朝鮮に出兵しようとは思っていないんですよ。朝鮮を日本と同じレベルに参加せしめて、同じ歩調でやろうと考えていた。彼は大使として漢城(はんそん)、北京に行きたいと身近な者に漏らしていたそうです。ですから勝海舟の三国同盟という構想は西郷の頭にあったわけです。
 
ただそうすると、ロシアと必ず衝突する---これもやっぱり覚悟しているんです。ロシアと衝突したら、負けるか、負けないかどうかわからないけれども、他国を引き込むことによって外交で何とか解決できる。つまりロシアといっても日露戦争のときのあの強大なるロシアはシベリア鉄道によって成立したのであって、西郷の時期ではシベリア鉄道はありませんから、せいぜいロシアは兵隊を一万人もアジアに送れればいいほうです。ですから突拍子もないことをいっているわけじゃないんです。ロシアと衝突してもいい。それを契機に国民が成立していけばいいと思っていることまで入っているんですね。
 
ところが大久保はそうは思わないわけで、ドイツ式にやればいい、西ヨーロッパではドイツが一番遅れているのだから日本が参考にするにはもっともいいと考えている。大久保はパリ・コミューンが終わった直後のフランスを見ています。山県有朋も明治二年の夏に、西郷従道とともに軍事見学のためにパリを見ていますね。そのときはまだパリ・コミューンが政権を樹立する前ですが、その気分はすでに濃厚だったのです。そしてフランス兵の士気の低下、皇帝に対する批判の態度、それよを見ての鬱憤の情を木戸孝允への手紙で漏らしています。これは大久保が明治四年に見たときの感想と同じなんですよ。
 
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