『歴史のなかの邂逅1』ー司馬遼太郎
●叡山ー③
 
最澄が入唐したのは顕教である天台の体系を日本にもたらすためで、わずかに密教ももち帰った。
が、時代の要求は密教にあった。叡山に組織的な密教が導入されるのは、最澄の死後、円仁(794~864)、円珍(814~891)が入唐してそれをもち帰ってからである。密教の原則は伝法の師を仏として拝するところにあり、空海がその死後、門弟からそのように神秘化されたことも、密教の流風からみれば当然といっていい。
 
顕教家である最澄の場合、在世中、弟子たちが彼を仏であるとして拝んだ形跡はない。死後もない。このことは彼が密教家でなかったことにもよるが、やはり人柄にもよるであろう。
叡山が興隆するのは平安期歴世の宮廷の帰依によるが、彼らが貴しとしたのは叡山における密教(台密)で、具体的には加持祈祷であり、ひるがえっていえば最澄の本領としない部門によってであった。
 
かといって叡山の顕教部門がおろそかにされたわけではなく、むしろ最澄の死後、大いに発展し、やがて浄土教や禅、法華経信仰という日本的な仏教を生む土壌になった。
ともかくも、日本史における叡山の位置はあまりにも大きい。ただ一個の宗教勢力としては信長の焼き打ち後衰弱し、明治後さらに衰え、戦後、各地の有力寺院の独立でいっそう衰えて、仏教界ではむしろ小勢力になってしまっている。「山」には膨脹という遠心のエネルギーは何世紀も前に消え、むしろ日本仏教のふるさととしての古典的威儀を守ろうとする求心のエネルギーのほうが強い。