『歴史のなかの邂逅3』ー司馬遼太郎

●無名の人ー➅
 
その後、かれのことを調べるともなしに調べていくうちに、さまざまのことがわかってきた。美濃は今の岐阜県の南部である。赤坂駅の「駅」とは宿場のことで、かれは、今の地名でいう岐阜県大垣市にあった造り酒屋で生まれ、幼時近所の医師・所家へ養子にやられ、やがて医師になるべく方々に遊学した。京の蘭学者についたこともあり、越前大野という雪深い土地の城下町へ勉強に行ったこともある。大阪の緒方洪庵塾にはいったのは、二十二歳の時であった。洪庵塾ではオランダ語のほか、おもに病理学と外科学を学んだようである。
 
その後、時勢に対する憂悶を押さえがたく京へ上り、志士として国事に奔走し、やがて浪人の身ながら長州藩の嘱託のようなかたちになって活躍していたらしい。この当時、幕府が天下の諸大名を動かしてこの藩を征伐しようとしていたために、長州藩は滅亡の危機にあった。所郁太郎は、そういう長州藩を救うために、長州閥ではないながら、この藩内であれこれと奔走していたのであろう。その時期に井上聞多の遭難があり、且つほどなく、かれ自身が病魔のために倒れるのである。
 
緒方洪庵塾ではよほどの秀才であったらしいが、その生涯はわずか二十七年であり、志士としてはまったく無名で、記録にとどめられるような功績は何もなかった。
が、かれの師の緒方洪庵という人は医者の道を説くことのやかましかった人で、常々、
 
「医者というのは、人を救うために人の世で生きているもので、自分のために生きているのではない」
 
と言っていたから、そのよき弟子であった所郁太郎も、たとえ志中途で死んだとはいえ、ひとりの人間をその死から救ったことだけで、自分の短い人生に十分意義があったと思っているかもしれない。
所郁太郎には、一葉の写真が残っている。旅の武士姿で、笠を持ち、草の上に片ひざをついている。その秀麗な横顔を見ていると、なにやら、右のような意味のことを、いまにも呟きそうに思われてくる。

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