『三島由紀夫語録』ー秋津 建
●「小説家の休暇」について


人をして安心して私を笑わせるために、私も亦、私自身を客観視して共に笑うような傾向も、戒めなくてはならぬ。さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもっとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に媚びることである。他人が私を見てユーモラスだと思うような場合に、他人の判断に私を売ってはならぬ。「御人柄」などと云って世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。


これは三島氏の処世訓と言ってもよいような言葉である。世に太鼓持の役割を演ずる人間がいることは古今また東西の別を問わない。しかし、一口に太鼓持ちと言っても、四種類の人間がいる。生来性の太鼓持としか言いようのない人で、太鼓持たることを自らエンジョイしている。出世欲もなく、また、自己に対する葛藤もない。というのが第一のタイプ。出世欲は人一倍旺盛で、出世の為なら一時の恥は忍んで太鼓持でもなんでもやる。案外太鼓持たる瞬間には楽しんでいるが、その分だけ自己嫌悪も少ない。というのが第二のタイプ。太鼓持など嫌で嫌でたまらないが、回りの情況からやらざるを得ない。一人になると、自己嫌悪から鏡を見るのも嫌だ。というのが第三のタイプ。回りの者がむしろ圖(はか)って太鼓持の役割をさせるが、当人は自分は太鼓持たることの自覚もなく、勿論自己嫌悪もない。というのが第四のタイプ。

 

第一のタイプは健康的で、有益ですらあるが、少ない。第二のタイプは最も多く、不健康だが無害である。第三のタイプは、不健康かつ有害である。第四のタイプは、無益である。

 

太鼓持というのは、人間の生き方の一つを象徴しているが、たとえ他人から嘲笑されても、誇りをもっていればいい、といった種類の生き方は、些かも象徴してはいない。所詮は唾棄されねばならぬ生き方である。自分をカリカチュアライズする生き方も、これと同程度に唾棄されねばならない。ところが不断に自らを戒めていないと、われわれは、とかくに第二のタイプの楽観的太鼓持か第三のタイプの悲観的太鼓持かもしくは、三島氏の言う売淫常習者になりがちである。