『歴史のなかの邂逅ー2』ー司馬遼太郎
●ああ新選組ー①
✪京の壬生(みぶ)の人は、いまだに新選組のことをよく思っていない。私は壬生の古老が「なんどす、あのミブロどもは」と吐き捨てるようにいったのを聞いた記憶がある。ミブロとは壬生浪で、新選組の蔑称だ。
元治元年六月五日といえば、新選組の池田屋切り込みの日で、この前後が、近藤勇の得意の絶頂の時代だった。
その三日のちの発信日づけで、勇は、江戸の養父、近藤周斎に手紙を送っている。池田屋の変でいかに新選組がよく働いたかということを躍動するような文章で報じ、末尾に、
「関東表、武人の有志御座候はば、早々上京致しく候様、お頼み申し上げ候。兵は東国に限り候と存じ奉り候」
新選組は相次ぐ手柄で幕府にその実力を大きく評価され、勇の申請で増員が認められたのである。
この手紙で勇は、剣客である養父に人探しの依頼をしている。しかし「兵は東国に限り候」とは、よくぞ言ったものではないか。
上方者が兵に向かないのは当然なことで、奈良朝以前から、上方の防衛のための兵は、もっぱら関東、日向、薩摩(隼人)から連れてきていた。
この大昔の東国の強兵は「佐伯(さえぎ)」と呼ばれる異人種で、アイヌの一派らしい。とにかく騒ぐのが好きで、しかも言葉が異語である。畿内の者にはそれが叫んでいるように聞こえ、「叫び」が「佐伯」になった。「日本紀」にこんな話がある。
景行天皇の四十年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷を征伐して佐伯をたくさん連れて帰ってきた。それを尊の伯母さんが斎主をしている伊勢神宮に献じたが、この連中の乱暴には閉口した。
「昼夜喧嘩し、出入礼なし。隣里に叫び呼びて人民を脅す」
というから強いはずである。
この異人種の子供がのちに坂東武者となり、頼朝を擁して上方侍である平家を追っ払った。さらに七百年の後世、幕末の暗殺団長、近藤勇をして「兵は東国に限り候」と言わせているのだから、血は争えないものである。
#新選組・近藤勇 #兵は東国に限り候 #壬生浪(ミブロ)
●ああ新選組ー①
✪京の壬生(みぶ)の人は、いまだに新選組のことをよく思っていない。私は壬生の古老が「なんどす、あのミブロどもは」と吐き捨てるようにいったのを聞いた記憶がある。ミブロとは壬生浪で、新選組の蔑称だ。
元治元年六月五日といえば、新選組の池田屋切り込みの日で、この前後が、近藤勇の得意の絶頂の時代だった。
その三日のちの発信日づけで、勇は、江戸の養父、近藤周斎に手紙を送っている。池田屋の変でいかに新選組がよく働いたかということを躍動するような文章で報じ、末尾に、
「関東表、武人の有志御座候はば、早々上京致しく候様、お頼み申し上げ候。兵は東国に限り候と存じ奉り候」
新選組は相次ぐ手柄で幕府にその実力を大きく評価され、勇の申請で増員が認められたのである。
この手紙で勇は、剣客である養父に人探しの依頼をしている。しかし「兵は東国に限り候」とは、よくぞ言ったものではないか。
上方者が兵に向かないのは当然なことで、奈良朝以前から、上方の防衛のための兵は、もっぱら関東、日向、薩摩(隼人)から連れてきていた。
この大昔の東国の強兵は「佐伯(さえぎ)」と呼ばれる異人種で、アイヌの一派らしい。とにかく騒ぐのが好きで、しかも言葉が異語である。畿内の者にはそれが叫んでいるように聞こえ、「叫び」が「佐伯」になった。「日本紀」にこんな話がある。
景行天皇の四十年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷を征伐して佐伯をたくさん連れて帰ってきた。それを尊の伯母さんが斎主をしている伊勢神宮に献じたが、この連中の乱暴には閉口した。
「昼夜喧嘩し、出入礼なし。隣里に叫び呼びて人民を脅す」
というから強いはずである。
この異人種の子供がのちに坂東武者となり、頼朝を擁して上方侍である平家を追っ払った。さらに七百年の後世、幕末の暗殺団長、近藤勇をして「兵は東国に限り候」と言わせているのだから、血は争えないものである。
#新選組・近藤勇 #兵は東国に限り候 #壬生浪(ミブロ)
