『日本史こぼれ話』-笠原一男・児玉幸多
●金印の発見
✪後漢の光武帝から賜ったという金印には、古来偽作説がつきまとっていた。現在のところでは、どうやらホンモノらしいというが、発見のいきさつも大いに謎めいている。まずは発見者甚兵衛が福岡藩郡奉行の津田源次郎に提出した口上書からながめてみよう。
ときは1784年(天明4)年2月23日、ところは博多湾頭、志賀島の叶の崎、熱心に田の溝を修築していた百姓の甚兵衛は、二人持ちの大きな石にぶち当たった。かな梃子(てこ)でどうやらこれを取り除くと、石の間に何やらキラッと光るものがある。拾いあげた甚兵衛はびっくりした。紛れもない黄金の印判で、漢字がはっきりと刻んである。急ぎ戻った甚兵衛は藩の儒医、亀井南冥(なんめい)のもとへ持って行った。ここではじめて金印の由来がわかる。南冥は大金を投じて入手しようとするが、これを聞いた郡奉行の津田は庄屋の長谷川武蔵を通じて甚兵衛から藩主の黒田氏へ金印を差し出させたというのである。
1913(大正2)年、九州帝国大学の中山平次郎博士は文献や地図を考証して、金印出土地点を推定し、「漢委奴国王金印発光之処」と刻んだ記念碑を建てた。ところが実際にゆけばわかるのだが、その推定地は急斜面が落ち込む海辺にあり、とても甚兵衛の水田があったとは思えない。発見のについても疑義がある。一書には秀治と喜平という二人の作男が見つけたのだと書いてあり、印があったのは大石の下の三個の石に囲まれた場所だったという。ひょっとすれば支石墓(しせきぼ)だったのかもしれない。こんなところからこの金印は意図的に隠匿されたとか、遺棄されたとか、墳墓に埋納されたとか、の諸説が生まれた。果たして真相はどうなのだろうか。
#金印 #甚兵衛 #奉行
●金印の発見
✪後漢の光武帝から賜ったという金印には、古来偽作説がつきまとっていた。現在のところでは、どうやらホンモノらしいというが、発見のいきさつも大いに謎めいている。まずは発見者甚兵衛が福岡藩郡奉行の津田源次郎に提出した口上書からながめてみよう。
ときは1784年(天明4)年2月23日、ところは博多湾頭、志賀島の叶の崎、熱心に田の溝を修築していた百姓の甚兵衛は、二人持ちの大きな石にぶち当たった。かな梃子(てこ)でどうやらこれを取り除くと、石の間に何やらキラッと光るものがある。拾いあげた甚兵衛はびっくりした。紛れもない黄金の印判で、漢字がはっきりと刻んである。急ぎ戻った甚兵衛は藩の儒医、亀井南冥(なんめい)のもとへ持って行った。ここではじめて金印の由来がわかる。南冥は大金を投じて入手しようとするが、これを聞いた郡奉行の津田は庄屋の長谷川武蔵を通じて甚兵衛から藩主の黒田氏へ金印を差し出させたというのである。
1913(大正2)年、九州帝国大学の中山平次郎博士は文献や地図を考証して、金印出土地点を推定し、「漢委奴国王金印発光之処」と刻んだ記念碑を建てた。ところが実際にゆけばわかるのだが、その推定地は急斜面が落ち込む海辺にあり、とても甚兵衛の水田があったとは思えない。発見のについても疑義がある。一書には秀治と喜平という二人の作男が見つけたのだと書いてあり、印があったのは大石の下の三個の石に囲まれた場所だったという。ひょっとすれば支石墓(しせきぼ)だったのかもしれない。こんなところからこの金印は意図的に隠匿されたとか、遺棄されたとか、墳墓に埋納されたとか、の諸説が生まれた。果たして真相はどうなのだろうか。
#金印 #甚兵衛 #奉行
