『歴史の中の邂逅ー2』-司馬遼太郎

●洪庵のたいまつ-③

 

もう少し鎖国について話したい。

鎖国というのは、例えば、日本人全部が真っ暗な箱の中にいるようなものだったと考えればいい。

長崎は、この中の日本としては、針で突いたように小さな穴だったといえる。

その小さな穴から微かに世界の光が射し込んできていたのである。当時の学問好きの人々にとって、その光こそ中国であり、ヨーロッパであった。

人々にとって志さえあれば、暗い箱の中でも世界を知ることができる。例えば、オランダ語を学び、オランダの本を読むことによって、ヨーロッパの科学の幾分かでも自分のものにすることができたのである。洪庵もそういう青年の一人だった。洪庵は長崎の町で2年学んだ。

 

29歳のとき、洪庵は大坂に戻った。ここで診療をする一方、塾を開いた。ほぼ同時に結婚もした。妻は、八重という、やさしくて物静かな女性だった。考え深くもあった。八重は終生、彼を助け、塾の書生たちからも母親のように慕われた。洪庵は、自分の塾の名を『適塾』と名付けた。日本の近代が大きな劇場とすれば、明治はその華やかな幕開けだった。その前の江戸末期は、俳優たちの稽古の期間だったといえる。適塾は、日本の近代のための稽古場の一つになったのである。

 

素晴らしい学校だった。

入学試験などはない。

どの若者も、勉強したくて、遠い地方から、はるばるやって来るのである。

江戸時代は身分差別の社会だった。しかしこの学校では、いっさい平等であった。侍の子もいれば町医者の子もおり、また農民の子もいた。ここでは、「学問をする」というただ一つの目的と心で結ばれていた。

 

適塾においては、最初の数年は、オランダ語を学ぶことに費やされる。

先生は、洪庵しかいない。

その洪庵先生も、病人たちを診療しながら教える。体が二つあっても足りないほど、忙しかったが、それでも塾の教育はうまくいった。塾生のうちで、よくできる者ができない者を教えたからである。

8つの級に分かれていて、適塾に入って早々の者は八級と呼ばれる。一級の人は、最も古いし、オランダ語もよくできる。各級に、学級委員のように「会頭」という者がいる。塾生全部の代表として、塾頭という者がいた。ある時期の塾頭として、後に明治陸軍をつくることになる大村益次郎がいたし、また別の時期の塾頭として、後に慶応義塾大学の創立者になる福沢諭吉もいた。