『歴史の中の邂逅ー2』-司馬遼太郎
●洪庵のたいまつ-②
✪人間は、人並みでない部分をもつということは、素晴らしいことなのである。そのことが、ものを考えるバネになる。
少年時代の洪庵も、そうだった。彼は、人間について考えた。人間が健康であったり、健康でなかったり、また病気をしたりするということは、何に原因するのか。さらには、人体というのはどういう仕組みになっているのだろう、というようなことを考え込んだ。
この少年は、物事を理詰めで考えるたちだった。
今の言葉でいえば、、科学的に考えることが好きだったといっていい。
少年は、蘭学とくに蘭方医学を学びたいと思った。幸い、この当時、中天游・なかてんゆう(1783~1835)という学者が、大坂で蘭方医学の塾を開いていて、併せて初歩的な物理学や化学についても教えていた。
少年はここに入門した。主として医学を学んだのである。
中天游からすべてを学び取った後、さらに師を求めて江戸へ行った。22歳のときであった。
江戸では、働きながら学んだ。按摩をしてわずかな金をもらったり、他家の玄関番をしたりした。そのころ、江戸第一の蘭方医学の大家は、坪井信道(1795~1848)という人だった。
ついでながら、江戸時代の慣習として、偉い学者は、普通、その自宅を塾にして、自分の学問を年若い人々に伝えるのである。それが、社会に対する恩返しとされていた。
洪庵は、坪井信道の塾で4年間学び、ついにオランダ語の難しい本まで読むことができるようになった。
そのあと、長崎へ行った。
長崎。
この町について予め知っておかねばならないことは、江戸時代が鎖国(外国と付き合わないこと)だったことである。
幕府は、長崎港一ヶ所を外国に対して開いていた。その外国も限られていて、アジアの国々では中国(当時は清)だけであり、ヨーロッパの国々ではオランダだけだった。そういうわけで、長崎にはオランダ人がごく少数ながら住んでいたのである。
