『教育勅語と明治憲法』-司馬遼太郎

●教育勅語は朱子学そのもの-②

 

さらに江戸時代のことを言い始めるときりがありませんので、ここでは申しませんが、とにかくわれわれの歴史は第一級の歴史だと私はずっと思ってきています。

ところが昭和元年から昭和20年までは異常である。おそらく私はこのシリーズにおいて、言い続けることになると思うのです。

 

主題はそれです。特に昭和15、6年ごろから敗戦の20年までは異様でした。日本史の鬼っ子といいますか、そういう時代だったと、それを京都府立一中の校長先生もどこかで思っておられたのではないか。

「いいです、いいです。どうぞお持ちください。」

そういわれた教育勅語こそ気の毒であります。

私も子供のときに教育勅語をずいぶん聞かされました。元旦の式のとき、これは寒うございました。

それから2月11日の紀元節も寒かったですね。とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた。

実を言いますと、私のような怠け者の児童は、ただお経のように音律を覚えているだけであり、もしくはその校長先生の演出、厳かな演出を覚えているだけでした。

内容まではよく覚えていないのです。教育勅語は明治23年に発布されたものですね。私はこれから教育勅語論をするのではなく、教育勅語の文章、日本語としての教育勅語の話をしていきたいと思います。

 

教育勅語は日本語というよりも漢文ですね。日本人にとって漢語はヨーロッパ人におけるラテン語のようなものであります。

ひとつの観念を表現したり、あるいは難しいことを表現するときに、日本人はやはり和文よりも漢文だと思い込んでいたところがありますね。同時に、日本語の発達のために漢文は大いに役には立ったのですが、それにしても教育勅語は漢文そのものでした。

おそらく最初は漢文で書いたんじゃないでしょうか。

草案を書いた人に元田永孚(ながざね)という人がいます。

元田永孚という人は漢学者です。

独創的な考えを持っているというよりは、非常に優秀な学者ですね。

 

生まれは熊本県でした。熊本県のお侍の中でもたいへん格の高い家柄に生まれ、時習館という藩校に通いました。時習館は有名ですね。二百何十藩の藩校の中でも第一位に位するほどの立派な学校でした。

 

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