『日本史こぼれ話』-笠原一男・児玉幸多
●攘夷の値段


 攘夷や異人切りは、それを実行する攘夷主義者にとっては愉快なことであったろうが、そのあとで莫大な賠償金を請求されることになり、幕府や明治政府にとって大きな経済的圧迫となった。
また列国も賠償金支払いを対日交渉の切札としてつかった。
 
1860(万延元)年12月、ハリスの通訳官ヒュースケンが薩摩藩士によって殺されたときには、幕府は彼の母に1万ドル(約6000両)を支払うことで話がついた。翌年、5月、水戸浪士がイギリス公使館であった東禅寺を襲った事件では、館員二人が負傷し、1863(文久三)年、生麦事件の賠償金といっしょに1万ポンド(4万ドル)が支払われた。
 
しかしこれぐらいはまだ安いほうである。1862(文久二)年8月におきた生麦事件では、イギリス人リチャードソンが殺され、ほかに二人が負傷したが、イギリスの強硬な要求により、幕府は翌年、11万ポンド(そのうち1万ポンドは東禅寺事件賠償金)を銀貨で支払わされることになった。これは約26万両に相当する大金で、これを検査して箱に詰め、艦隊の甲板に運ぶだけでも、丸三日かかったという。イギリスは薩摩藩にも2万5千ポンド(10万ドル)を要求した。薩摩藩はこれを拒否して薩英戦争がはじまったが、結局、要求どおりの金額を幕府から借用して支払った。事実上幕府は、生麦事件により、12万5千ポンドも払わせられたことになる。
 
賠償金の極め付きは下関戦争であろう。1864(元治元)年に総額300万ドルを6回分割で払うことになったが、換算すれば75万ポンド、180万両という途方もない額である。これではいくら幕府でも払えるわけがない。実はこのような高額になったのは、とうてい支払い不可能な額を要求し、支払えなければその代わりに、新たな開港場を獲得することがイギリスの本当のねらいだったからである。ところが幕府は列国の予想に反し、償金支払いのほうを選んだ。結局、幕府は3回で合計150万ドルを支払い、残りの半分は明治政府に引き継がれ、1874(明治七)年にやっと完済することになる。薩長両藩は攘夷で幕府を苦しめたが、結局、藩閥政府は、みずから蒔いた種の責任を負うはめになったといえる。