『空海・無限を生きる』ー松長 有慶
●顕教と密教


✪十住心(じゅうじゅうしん)-③
第六住心は他縁大乗心(たえんだいじょうしん)です。自分に縁の無いものにまで悲の心を起こして大乗に入ります。この点は重要です。慈悲の心を起こしても、自分に縁のあるものにだけそれを向けているのでは、大したことはありません。自分に全く関係のないものに対して慈悲の心を及ぼすことが、大乗に入るきっかけとなるのです。その最初は、いっさいの事物は幻や影のように実体がなく、ただ心の働きのみが存在するという唯識の立場を表します。奈良の六宗の一つ法相宗の立場がこれにあたります。

 

第七住心は覚心不生心(かくしんふしょうしん)です。いっさいの事物は相対を離れた空であると観ずれば、心は穏やかに、安楽になります。空観(くうがん)を説く三論宗(さんろんしゅう)の立場にあたります。三論宗も南都六宗の一つです。この現実世界はすべて実体がないのだ、というところまで精神状態が進んだ状況です。

第八住心は如実一道心(にょじついちどうしん)です。一道無為心、如実知自心、空性無境心ともいわれます。あらゆるものは対立を離れた一如(いちじょ)であり、本来清浄であり、主観もなければ客観もない。このような心の本性を知る者は毘盧遮那(びるしゃな)といいます。天台宗の立場です。ここからいよいよ本格的な大乗仏教が始まります。

 

第九住心は極無自性心(ごくむじしょうしん)です。水には定まった性がなく、風にあえば波となるように、いっさいのものは固定した性質を持たないという華厳宗の教えの世界です。我々が海を見て、あれは水だ、あれは波だと区別しても仕方がありません。風が吹けば波になるし、静かだったら水なのです。このことは、我々の現象世界と真理の世界の二つの関係にたとえられています。現実世界も理想世界も本来は同じなのですが、あるときは波になり、あるときは水になるものだ、と考えるのです。華厳宗の立場をたいへん高く評価しているわけです。最澄は南都の仏教より天台のほうが勝っている、としましたが、空海によれば天台が第八で南都の華厳が第九であると、評価は違います。しかし、仏教の哲学的理論としては、華厳宗の立場で終局点に達しています。

 

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