『日本史こぼれ話』-笠原一男・児玉幸多
●ペリー提督の贈り物
✪アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督は、1853(嘉永六)年に引き続いて翌年早々にふたたび来航し、強硬に条約交渉をすすめたが、一方では各種のめずらしい贈り物によって、幕府の好意を得ようとする心理作戦にもぬかりはなかった。ペリーの贈り物は、前年に来航したとき約束した小型蒸気機関車と電信装置であった。まず機関車はさっそく浜に円形軌道を敷いて走らせたが、身を縮めても客車の中に入れないほどの大きさであるため、幕府の役人たちは屋根に取り付いて乗った。
時速20マイル(約32キロ)で走る小型の汽車に役人たちが必死にしがみついている姿は、アメリカ人たちには実に珍妙な見世物であった。電信装置は、会見所から約1マイル(約1.6キロ)ほど離れたところに小屋を建て、その間に電柱を立てて電線を張り、通信実験が開始された。幕府の役人は、一瞬のうちに口上が英・蘭・日本語で伝達されることを見て非常に驚き、毎日のように通信所に詰めかけて、いつまでも通信の受送を見物していたという。
ペリーの贈り物に対し、幕府が贈った品々は、綿や絹織物、漆器(japan)や磁器(china)など、いずれも日本の伝統工芸品で、幕府としては精一杯の好意であった。そのほか、多くの米俵も贈られた。ペリー一行が米俵見ていると相撲取りが25人ばかりあらわれた。彼らはそれぞれに俵を投げて怪力を披露したあと、相撲の取り組みをしてみせた。
しかしペリー一行にとっては、「一対の野獣が互いに相手の血に渇(かつ)えているのではないかと思うほどであった」(『ペリー提督日本遠征記』)。アメリカの記録者は更につづけて言う。「この力士の野蛮な興行から、電話と鉄道の公開に目を移すと、米人は誇りを感じた。・・・・・・それは日本当局の嫌うべき見世物と、高い文化が与える愉快な対照(コントラスト)だった」と。
相撲が野蛮であるということに同意はできないが、科学技術の水準の差が如何ともしがたかったことは事実である。
