『荷風歓楽』ー石川 淳
●敗荷落日ー➅


戦前の大金は戦後の小銭、むかしの逸民は今の窮民である。ぶらぶら遊んで暮らす横町の隠居というものを、今日考えることができるだろうか。ランティエという言葉は観念上にもすでに滅びて、その言葉に該当するような人間はもはや実在しえない。事態は明瞭である。一生がかりの退職金でも老後は食えないという市井の事実は、個人生活に於ける元金の魔の失権を告げている。

しかし、今日の小市民の中にも、猶、昔と同じく、ランティエの夢は懐古的に残っているかもしれない。ただ昔と違って、今日の小市民はそれがついに実現すべからざる夢だということを、そして食うに困らない明日の、いや、昨日の夢に足をさらわれては今日たちどころに食うに困るということを、痛切に思い知っているだろう。

 

小市民というものは存外抜け目のないやつらなのだから、よっぽど足腰の立たない律儀者でない限り、あらゆる念願にも係わらず、自分の人生観を自分で信ずるなんぞというドジは踏まない。

自分の人生観。いや、人生観は出来合いの見本がずらりと並んでいる中から、当人の都合に依って、任意に取捨した方が便利に決まっている。その見本の山の底に、とうに無効になったランティエの夢がうっかり紛れ込んでいたとしても、たれも手を出すはずがない。これは戦争という歴史の断絶が市井に吹き込んだ生活上の智慧だろう。このとき、市井の片隅にあって、荷風がいつも手から離さなかったというボストンバッグとは、いったい何か。