『明治という国家』ー司馬遼太郎
●廃藩置県ー第二の革命ー⑲


滝家は、廉太郎の祖父の代から、この小さな大名の仕置家老---門閥でなく能力を買われてなった家老でした。石高は200石、小藩の200石ですから、大したものです。廉太郎の父の吉弘は有能な実務家で、新政府からその能力を買われて、大蔵省、内務省の下級官吏になり、のち県に出向し、晩年は故郷の大分県に帰り、竹田の町に住んで郡長を務めておりました。維新によって没落をまぬがれただけでなく、なんとか世を渡って行ったほうに属します。廉太郎が音楽のような分野にゆけたのも、こういう家に育ったからでしょう。

 

彼が、幼年期と少年期を過ごした竹田城は、岡城ともよばれていて、城郭研究をする人々に評判のいい城です。溶岩台地をくりぬいたような小盆地の中に、城も城下町もあります。この城も、廃藩置県のあと、明治政府が怖れて取り壊してしまいました。惜しいことでした。戦国期に摂津(大阪府)にいた中川という7万石の大名の城で、その規模と堅牢さは30万石の大名の城だと言われたものでした。

 

天守閣は三層しかありませんが、櫓(やぐら)が誠にゆゆしげです。特に月見櫓という印象的な名前の櫓があります。滝廉太郎が作曲した『荒城の月』は仙台出身の英文学者の土井(つちい)晩翠の作詞で、その第一節が、「春高楼の花の宴、めぐる盃かげさして、千代の松が枝わけいでし、むかしの光いまいずこ」とありますが、滝廉太郎の子供のころ、月見櫓はすでに取り壊されて存在しなかったとはいえ、かれが土井晩翠のこの詩を読んだとき、その脳裏に湧くようにあらわれたのは、豊後竹田の古城だったでありましょう。さらにいえば、東北人である土井晩翠のイメージにあった荒れにし城とは、故郷仙台の青葉城よりもむしろ、旧制二高生のときに訪れた会津若松の鶴ヶ城であったと晩翠は回想しています。戊辰戦争のとき、佐幕派代表のような貧乏くじをひいて戦った鶴ヶ城とその侍どもの拠り所こそ、荒城の名にふさわしかったかもしれません。

 

この詩人と音楽家の二人の想念にあらわれた”荒城”は、いずれも、明治4年の廃藩置県のあと数年のあいだに壊された城どもであります。

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