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『世に棲む日々』ー司馬遼太郎
●あとがきー⑤

✪松陰のもっとも忠実な弟子と自任していた人物は、前原一誠しかいなかった。前原は松下村塾の出身者群が枢要の席についている明治の太政官政府はきわめて松陰思想的でないと思い、いわゆる萩の乱を起こして失敗し、松陰に親炙(しんしゃ)した木戸孝允らによって形殺された。松陰に愛された品川弥二郎も、太政官の内務大書記官であった。品川は前原と仲がよく、その獄舎をたずねた。

『西南記伝』の記者は、その状況をよく取材していたものと思える。前原と同士で、同じく松陰の弟子の奥平謙輔も同じ牢内にいた。謙輔が、品川に言った。「僕等、将(まさ)に日ならずして黄泉(よみ)に赴(おもむ)かんとす。必ず先師松陰先生に謁(えつ)せん、師もし足下の状を問わば、何を以てか之に答えん」。

前原からすれば非松陰的な太政官の官員に品川がなっているのは松陰に対して顔向けできまい、ということであろう。この場合、品川の返答が軽妙である。

「幸いに、現状を以てせよ」

こんな例をあげたのは、何が松陰の思想かということである。松陰の忠実な徒であるとする前原を松陰自身は親孝行な男だという以外かならずしも高く買っていなかったが、前原の書き残したものなどを読むと、いつの時代にもいる単なる保守家としてしか感じられない。松陰に直接ついた前原でさえ、松陰の思想が何であるかが分かりにくかったようであり、さらに言えば、松陰の思想は一時代過ぎてしまえばその通力を失いがちなものであるともいえるかもしれない。

もっと極端に言えば、松陰の思想は松陰という稀有な個人においてのみ電撃性を帯びるものであり、他には通用しがたいものであるかもしれない。




#松陰 #前原 #品川