『歴史のなかの邂逅ー1』-司馬遼太郎
●勇気あることば-①


念仏して、地獄におちたりとも、

 

さらに後悔すべからずさふらふ

 

                    ----親鸞

 

親鸞の晩年、京にいるころ、かって教化した関東の門人たちが念仏してはたして往生できるかと、根本義に疑念を感じてはるばるたずねてきた。その様子が「歎異抄」冒頭のうしおの鳴りうねるような名文のなかに出ている。

 

「おのおの、十余か国の境をかへりみずして、訪ね来たらしめ給う御こころざし、ひとへに、往生極楽のみちを、問ひ聞かんがためなり」

 

と、親鸞は、まずその労をねぎらい、しかしながら、という。おそらく念仏の奥義秘伝などを親鸞が知っていると期待されてのことであろう。それならば大いにまちがいである。親鸞はなにも知らぬ。ただ一つのことを知っている。

 

親鸞はいう。親鸞においてはただ念仏して弥陀にたすけられ参らすべし、という一事をよきひと(崇拝する師匠・法然)のおことばどおりに信じているだけである。そのほか、なんの仔細も別儀もない。

 

さらにいう。念仏すれば本当に浄土にうまれるのか、それとも地獄におちてしまうのか、総じて親鸞は存ぜぬ。しかしながらたとえ先師法然上人にすかされ(だまされ)、そのため「念仏して、地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。