『泣きどころ人物誌-⑳』-戸板康二
●石川啄木の遊興について-①

 

近代の歌人で、石川啄木ほど多く読まれ、親しまれている人はいないだろう。

代表作といわれる数百は、百人一首の歌のように、一般にすぐ口の端にのぼるほど知られ、「啄木はきょうも来るかと蟹を待ち」というざれ句までできている。

啄木の歌碑は、岩手県、青森県、北海道を主として、全国に50以上ある。

その中で異色なのは、釧路市南大通の朝日生命支社にあるもので、ここは近江屋という旅館の跡だが、近江屋は近江じんという女性が経営していた。そして、このじんこそ、釧路時代の啄木の愛した芸者小奴(こゃっこ)なのである。

 

その歌碑の歌は、「小奴といひし女のやはらかき耳朶(みみたぶ)なども忘れがたかり」

というので、馴染みの女の名を入れた歌が碑に残る例は、稀有というべきだろう。

啄木は明治45年4月13日、27歳の若さで死ぬ。20代で早世した天才として、小説家の樋口一葉と双璧であるが、啄木の場合、生涯についての資料は、はるかに多い。

それは克明な日記や私小説を当人が遺しているだけでなく、親友だった金田一京助、土岐善麿、野村胡堂といった人々が、くわしい回想を書いているせいもある。

 

啄木は、諸書の年譜を見ると、どこにも「生活苦」「貧窮」といったせつない文字が示されている。家庭も実母カツと妻節子の折り合いが悪く、暗かった。文化座で佐々木愛と鈴木光枝が嫁と姑を演じた「啄木の妻」(野口達二作)は、陰惨な芝居だった。

啄木は死ぬ前の年、クロポトキンの著書を耽読した。重病の床についている晩年、朝日新聞の同僚がカンパして、34円余りの金を小石川久竪町の家に届けているが、本俸24円の啄木にとっては大金だったはずだ。

 

しかし、そのうちの2円50銭で、クロポトキンの「ロシア文学の理想と現実」を買っている。評伝を書いた吉田孤羊は「レンブラントが友人から貰った金で絵の具を買ったのとおなじだ」といっているが、金を届けた杉村楚人冠はいささか呆れた。

 

それはともかく、こういう思想的に目覚めた啄木は、その歌でも、「働けど働けどなほわがくらし楽にならざりぢっと手を見る」「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」といった作品があり、つまりプロレタリア短歌の先駆者という風にも見られている。

そういった歌人の碑の「小奴」は、こうなるといかにも突飛だが、啄木は女性を愛し、酒席を愛し、花柳界で遊んだことを丹念に日記に記しているのだった。

 

明治41年、それまでの小樽から、小樽日報の経営する釧路新聞編集長として単身赴任、その土地に70余日滞在して上京するわけだが、2月23日の日記に、この町の鶏寅(しゃもとら)で、小蝶とすずめという芸者を知り、前者について「風情のある女」、後者について「小癪(こしゃく)にさはる女」と評している。啄木、この年、22歳である。

小奴については、2月22日から書かれ、「カッポレ見事であった」とあり、3月3日の酒席では「予の側に坐って離れず」と記し、そっと手紙を渡されたりする日が間もなく来て、3月20日には鹿島屋で小奴、市子といる時、小奴とぬけ出して、海岸を散歩したりしている。

交情は蜜のように甘く、若い男女は急速に親しくなる。「やはらかき耳朶」を知る日が、早くも来たと思われる。

 

Simplog