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『泣きどころ人物誌-Ⅱ』-①-戸板康二
●斎藤緑雨の女友達


斎藤緑雨(りょくう)は慶応3年に生まれ、明治37年に数えの38歳で早世した作家である。仮名垣魯文の門人だから、江戸の戯作者の流れをくむ小説も書いたが、筆法鋭い評論の歯切れがよく、「筆は一本なり、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし」という警句を残した。新聞に長く勤めたから、今日いうところのコラムニストというわけであろうが、本所緑町に住んだので、つけた緑雨(正確には緑雨醒客)のほかに、正直正田大夫という別名を称した。

実父が藤堂藩の御典医で、伊勢の神戸で生まれたので、大神宮の大神楽を奉納する家の名前を持って来たのだが、正直に歯に衣着せず、何でもズケズケ言おうという心意気を意味しているようにも思われる。

この緑雨は、知り合って一年経たぬうちに死別した女友達を、その後も長く胸に秘め、大切に抱いていた。

肺病で、容態がおかしくなった時、枕頭に招いて後事を託した親友に、英文学者の馬場孤蝶は、そういう正義感で邪悪に対してつよい姿勢で処した緑雨の中にひそむ、恋や愛とは違うかも知れないが、その余生にポッと灯をともした女性への緑雨の傾斜について、すべてを知っていた。