『歴史の中の邂逅(かいこう)』-司馬遼太郎

●荒木村重について-⑦

 
豊臣期における村重は、筆庵道薫と号して代表的な茶人のひとりであり、利休の高足7人のうちに数えられる。いまでも茶道のひとびとは「荒木高麗」という名物の朝鮮茶碗があることを知っており、またかれが「兵庫の茶壺」「姥口の平釜」などの道具を所持していたことを知っている。尼崎城を身一つで落去してからの村重は、通常の感覚からいえば倫理的な極限状態にあったといっていい。ふつうなら狂うか、自殺するか(自殺説もわずかにはある。しかし状況と適(あ)いにくい)、どちらかに追い込まれるはずだが、村重はともかくも茶事に身をゆだねて歳月を送ったかの観がある。

 

村重のことがわかりにくく、私は当初、村重がキリシタンで、そのために自殺ができなかったのかと思った。村重のかっての部下であり縁族であった一人に高山右近がいるし、他にも村重がキリシタンを保護するに手厚かったという資料があるから、かれ自身がそうであっても不思議ではないのだが、しかし当時のイエズス会の僧の報告書を見てもかれが受洗していないことは明らかなのである。あるいは落去のあと、命が惜しいあまりに受洗したかとも思ったが、右のような天下周知の事情やさらには自害したくないという理由だけでは、当時、極端にまで厳格だったイエズス会の会士たちが、受洗を承知するはずがないと思った。私は念のために上智大学のラブ神父さんに会い、村重の所業と状況を話して、かれの受洗は可能だろうかと聞くと、この前衛絵画の画家でもある若い活動的な神父さんは、少しの曖昧さも見せずに、それはとても、といった。とても受け入れられない、というのである。