『風塵抄ー2』- 司馬遼太郎
●自我の確立

 

動物には、自然の掟として、自立という段階がある。

たとえば、タカの母親は、断崖の巣の中で育てたヒナを、成長の段階で蹴落とす。

若タカは泡を食ったようにいったんは落ち、やがて弱い筋力ながらも羽ばたき、そのうち自分の餌場の谷をみつけて、高く舞う。

 

ヒトも自立が早かったろう。が、社会が進むにつれ、自立は微妙に遅れる。遅れてもいいが、しぞこねた場合、たとえばなまなましい宗教に自分そのものを委(ゆだ)ねてしまう。

 

ヒトの巣は家族と学校である。近代社会になると学校の期間がじつに長く、自然界ならとっくに自立しているのに、齢を食って、なお巣の中にいる。

自立できる筋力もあり、種の保存ができる性欲もあるのに、社会的訓練のおかげで、ことさらにあどけなく自分を作り成して、ヒナドリであるかのように、親の運んでくる餌を食べている。

 

個人差として、遅くオトナになる型のほうが、知的受容がしやすい。秀才といわれる青少年は、たいてい芯からコドモっぽい。

一方、べつな少年は、生物としてひそかにオトナになっている。内々オトナである分だけ、学業の受容能力をさまたげる。ときに劣等生のレッテルを貼られる。

 

話がかわるが、ヒトは成年もしくは老いはてても、自分の中にコドモを、多量に残している。日常、自分の中のオトナとコドモを、精妙な調節弁でもって、場面次第で使い分けて生きているのである。

 

「本日は、お日柄もよく・・・・・・・・」

と、婚礼の席であいさつをしたり、国会で答弁したりするのは、その人のオトナの面である。

一方、すぐれた音楽を作曲する人は、その人の中のコドモが、それをする。偉大なことに、恋愛もその人の中のコドモが受けもっている。ただし色恋沙汰は、その人のオトナがやる。

 

自我とは、自分自身の中心的な装置のことである。その人の肉体と精神を統御している中軸機関で、それさえ確立していれば、自分をタテ・ヨコからながめることが出来、自分を他者のように笑うこともでき、さらには自分についての一切の責任を持つことができる。年頃になれば自立したい。

 

が、大学院の博士コースまでゆくほどに知的受容が旺盛でも、むしろその知的受容の多忙さにかまけて、うかつにも自我の確立が遅れる場合がある。外容はりっぱでも、--自我が--空っぽのままでいる。時を経ると、実にさびしく、心許なくなる。