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『歴史の中の邂逅(かいこう)』-司馬遼太郎
●荒木村重について-②
 
✪私はかって戦国期のことにさほどの関心がなかったころ、荒木村重というのは、いかにもその名前の印象からみて粗豪な荒大名かと思っていた。村重の逸話でよく知られているのは、天正6年正月、かれが安土城へ伺候したとき、信長が脇差を抜き、かたわらの饅頭を突き刺して村重に食え、といったという話である。

村重が信長に属したのは天正元年だから、この話は属して6年後で、かれはその間、信長から異数の処遇をうけ、摂津の国主であるだけでなく織田家における6人の高級司令官の一人になっていた。しかし織田家に属してわずか6年ということは、新参であることを免れない。

村重も、ごく一般的にいって仕えがたい主人である信長に対して絶えず過度な神経を使っていたろうし、信長の側からみても、村重の性根が十分にはわかっていないという不安があったに違いない。信長が、本来どこの馬の骨とも知れぬ村重を重用しているのは道具としてであり、このことは信長の性癖につながる。信長は良馬が、飽くなく好きであったように、また遠めがねやオルガンや南蛮帽子や鉄砲が好きであったように、自分の役に立つすべての道具が好きであった。

天下布武を可能にする優れた部将たちを持ちたがった。信長は門閥や前歴を斟酌することなく人を登用したが、そのことは他に思想あってのことではなく、材幹というものを道具以上の道具と思っていたからということはいえる。村重は信長にとって最良の道具の一つとなっていたであろう。しかし村重がどういう人間であるのかとなると信長は今一つ納得がいかず、つい発作的にこういう所業に出て、村重の被っている面の皮を剥いでみたいと思ったに違いない。この逸話では村重は拝脆しつつ進み出、手を使えば畏れがあり、このため犬のように口だけ突きだして饅頭を食い取り、そのあと白刃のよごれを自分の袖でぬぐい取り、静かにさがってまた拝脆した。
 

 
 
 

#信長 #道具として見ている #饅頭を食い取り