『海軍の友人、陸軍の友人へ』-司馬遼太郎
●英雄的自己肥大

明治・大正までの海軍士官の家庭は、子弟に諸藩士の家庭ではなく(諸藩士の家庭は、徒士以下はぞんざいなものだったようです)旗本のそれを、無意識にシツケとして伝承させようとつとめたのでありましょう。

両親に対しては、サンでなくサマをつかわせ、かならず敬語を用いさせるというのは、諸藩の徒士級(太政官の大官の出身家庭)のそれでなかったと思います。旗本の家は、いずれこの子が殿中で御役につくということで、そのときにハジをかかぬよう、じつにやかましくしつけたものでありました。(むろん、芝居の直侍のような御家人、サンピンをこれにふくめません。ご存じのように旗本は石高、御家人は扶持米で、明治後の高等官、判任官、海軍での士官、下士官に相応します)。

 

これについて勝海舟さん(御家人あがり)でいいますと、大変なベランメエ言葉で、御家人は下町あたりの町人と言葉、行儀の上で変わりがありませんでした。以上考えますと、太政官の高等官員は、自分の出身はどうであれ、家庭内のシツケは旗本にならったことばがほぼ推察できるかと存じます。太政官の一環である海軍--川村純義、西郷従道の家々をご想像ください--もそうであったのではないでしょうか。むろん太政官の海軍にも赤松則良ら旧幕臣が何人かいます。モデルはいたわけです。

 

近代の革命(明治維新もそうです)というのは、下剋上でありまして、いわば民主主義でありますが、フランス革命でも何でも、落ち着きますと前時代(貴族時代)のよさを引き継いだといいます。引き継がねば下剋上ですから社会が壊れてしまうわけで、そういう生理のような原則があるようです。明治日本の場合、前時代の貴族というと、旗本しかありません。自然とならうようになったというべきでしょうか。