『三島由紀夫』ー川島 勝
●いまなぜ三島由紀夫なのかー22

✪戦友別盃ー④
私は三島が友人やジャーナリストたちと疎遠になっている頃、新しく移った職場の講談社インターナショナルでたまたま『大陽と鉄』の英語版・SUN AND STEEL
の仕事を担当していたので、三島とたびたび会う機会がもてた。精神と肉体の一致する絶対値の世界、つまり彼のいう文武両道の世界を論じたこの作品だけは、自分が英文として後に残す大事な仕事の一つとして取り組んでいた。彼が北斎の波とその前に立つ褌姿の表紙にあれほどこだわった真意がいまになって判然と理解できる気がする。

作家としての三島由紀夫は『豊穣の海』四部作と、この『大陽と鉄』の英文版に彼の作家としての晩年を賭けたと言っても過言ではない。

昭和45年の正月年賀に伺ったとき、和服姿の三島から、
「あなたに頼みたいことがある。奥さんの会社で僕の古い知りあいの詩集を出してもらいたいが、相談に乗ってもらえないか」という話があった。

この詩人は伊東静雄を師と仰ぐ田中光子という女流詩人であった。三島が若き日に伊東静雄を訪ねたころの知りあいであった。
彼女の詩集『わが手に消えし霰』は序詞・伊東静雄、序文・三島由紀夫で昭和45年7月10日、限定400部で家内の経営する牧羊社から上梓された。銀のキラ引き紙を使った箱入りの装填は私が担当した。

「田中光子さんは戦時中、築地明石町に住んでいて、そこへまだ高校生の私が一度訪ねて行ったことがある。築地明石町という地名は当然、鏑木清方の随筆で親しんでいた私が、その美女の面影と共に憧れていた土地であり、そこに住む田中さんは美しい人であった。折しも夏で、二階の座敷には葭(よし)障子が立てられ、その葭の細かい目ごとに、築地の空の海光が充ちていた。(中略)田中さんを訪ねたのは、その詩に心をそそられたからであり、作品の誘惑をそのまま作者に夢みるほど私は稚(おさな)かった」