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『三島由紀夫』ー川島 勝
●いまなぜ三島由紀夫なのかー21


✪戦友別盃ー③
自決の一ヶ月前の10月7日に村松剛と伊澤甲子麿が四谷の鳶の家で三島と会うことになった。このいきさつは、しばらく前から事実上の絶縁状態になっていた村松が、三島の身辺にたったひとり残っていた伊澤甲子麿に仲介を頼んで、会食の機会をつくってもらい、この日に会おうという事情による。

約束の時間に三島は半袖シャツ1枚の姿であらわれた。「楯の会」の帰りかと村松がたずねると、彼はやや曖昧に頷いたという。村松が「果たし得ていない約束」を読んで、ただごとじゃないと心配になったので、こうして時間をつくってもらった・・・・というと、
「ふーん。きみにも日本語がわかるのか。フランス語しかわからないのかと思っていた」
これを聞いてそばにいた伊澤が「何て失礼な」と呟いたが、三島はさらにつづけて、
「きみの頭の中の攘夷を、まず行なう必要がある」

目を据えた三島の血走った目は、いまも忘れられないが飯沼勲(『奔馬』の主人公)の目だった。ーーと、村松は最後に会った日のことを回想している。
そのあと、三島は政治家は危機意識を忘れ、文士の話題といえばゴルフの話と、こんどの賞は誰にやろうかという相談ばかりじゃないかと憤慨していたという。

三島は決行の日は11月25日とすでに決定していた。森田必勝らのほか9月に古賀浩靖を同士に加えている。が、検事の冒頭陳述書によると、
「同(9)月9日被告人古賀は、銀座四丁目の西洋料理店において、三島と会った際、三島から『市ヶ谷で楯の会の訓練中、自分が自動車で日本刀を搬入し、5人で連隊長にその日本刀で居合いを見せるからといって連隊長室に赴き、連隊長を2時間人質として自衛隊員を集合させ、われわれの訴えを聞かせる、自衛隊員中に行動を共にするものが出ることは不可能だろう。いずれにしても、自分は死ななければならない。決行日は11月25日である』旨従来からの計画を打ち明けられ、この行動に参加することを誓って決意を新たにした」

はじめ東部方面総監を人質にする計画が、のちに三十二連隊長に変わり、連隊長が当日不在ということで、再び方面総監に変わったといういきさつがあったが、いずれにしてもそれは11月25日までに『天人五衰』を完成させる見通しをつけた上での意思決定であった。


#総監・居合い#ゴルフ #自決