『京都の旅ー1』-松本清張・樋口清之


●本願寺-②


 つまり東大寺大仏殿は、世界一の大仏を容れるためにつくられた世界一の木造建築であるが、東本願寺本堂は、日本一の宗教人口を容れるためにつくられた世界第二の木造建築なのである。

 

元来、ただ本願寺といえば、いまの西本願寺をさした。しかしいまでは東、西、両寺にわかれ、両方ともおなじ六条にあるので、本派のを西本願寺、大谷派のを東本願寺とよぶ。信者は、お西さん、お東さんとよんでいる。この宗派は、一向専念の聖教を奉ずるから、古くは一向宗といわれた。また、浄土の真実義を説くので、浄土真宗または真宗ともいわれてきた。とにかく『教行信証』によると、自力を捨てて他力に帰し、ただちに報土を生ずるという横超(おうちょう)の教えである。

 

他力本願の信仰、すなわち大乗の教えである、などと知ったかぶりのことを言うとしかられる。釈尊以後考えに考えぬいて、親鸞にいたって到達した大乗の妙境だそうだ。しかし、形はいたって通俗的で、念仏さえ唱えれば、罪業ふかき者ほどよく済(すく)われる、というのである。まことに都合のよい話で、在家信仰として広がった。そのうえ、宗団組織がいたって巧妙につくられているのと、法主(ほっす)は、血脈によって継承されていくので、途中で横から乗っ取りができない。親鸞が妻帯を許した意味のひとつも、ここにあったのであろう。しかし、その末流は宗祖の達見にそむいて、お家騒動的なことをやり、だんだん別派をつくっていった。真宗十派がこうしてできた。弥陀の本願を達するための本願寺が、東西にわかれたのも、この家族的対立をたくみに家康に利用されたからである。

 

宗団組織がうまくできていて、壇信徒は、寺への施入(せにゅう)をよろこんでやるように仕向けられている。また、本山は、その末寺から、施物(せもつ)をうまい具合に取り上げるように仕組まれている。そのために寺ばかり立派になり、農民の生活はさっぱり高まらない村落があったりして、よく問題になった。

これなら本山にびっくりするような建物ができるはずであるし、法要には、何十万人という人が京都に動員されるわけである。これはちょうど、ヨーロッパ中世の寺院と農民との関係に似ている。