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『ことばづかいについて』-司馬遼太郎
 
 世の中のできごとは○×では断じにくい。しかし煮詰めてしまえば、答えは出る。お行儀、特に言葉づかいについて述べたいが、結論は先に出ている。言葉使いのいいほうがよろしく、長い人生を考えたときには、相手に与える印象はずっとよくなる。

しかし×のほうから述べたい。つまりことばが悪いほうが的確な表現ができるというのも事実である。航空会社でスチュワーデス(今風にいえばキャビン・アテンダント)をしていた女性が、名だたる河内弁の世界に嫁入りしてきた。
彼女は頭もよく、教養もある。だから上品な日本語を身につけたが、平素は最悪の河内弁を愛用している。
日本の友人がそのことを注意すると、
「せやけど、こんな便利なことば、ないでぇ」
たとえば、みな行列して電車を待っている。途中から割り込んでくる紳士がいると、彼女は
「オッサン、イテモウタロカ」
と、どなる。紳士は逃げ出してしまう。
また、満員でもない電車で、わざわざ、わずかな隙間にお尻をねじこんでくる中年女性がいる。彼女はすっくと立ち上がって、
「オバン、なんでヒトの体にすり寄って来んならん」
たいていのオバンは泡を食って逃げ出す。まことにこのことば、意思表明が明快である。
私の学校の後輩にKという人がいた。ところが中年になっても、役づきになれない。
「なんでやろ」
私にきいた。実に可愛いい感じで、私には物言いそのものがおかしい。私も調子をあわせて、紀州弁で、ちょっと上役に敬語でも使こうてみたらどうや、と言ってみた。
「そんな冷たいこと、でけるかいな」
紀州方言には敬語がない、と放言学のほうでめずらしがられている。ついでながら、紀州人は賢い。明治以前の日本の漁法のほとんどは紀州が発明したものである。カツオブシも濃口しょうゆも、紀州人の発明である。
K君もその一人だが、頑固な紀州人たちはぞんざいな言葉こそ親しみの表現だと思っている。
K君があるとき、上役と酒を飲んでいるときに、私も居合わせた。夜も更けたので、K君が上役のほうへ顔をねじまげ、
「クルマ、よんでンか」といった。上役がしぶしぶ立ち上がったのをみて、私は両方とも気の毒だと思った。
江戸期、上質の日本語の習得のために、武士階級は謡曲をならい、大坂の町人階級は浄瑠璃をならった。
各地の農村では、寺の言葉使いを学んだ。