『司馬遼太郎・全講演』-司馬遼太郎

●絶対他力の境地がお釈迦様の悟り

 

法然上人も親鸞聖人も栄西和尚も皆、比叡山に学ばれました。しかし、ここはしょせんは総合大学だったのです。

お坊さんとして偉い人になり一生を送るのでしたら、比叡山にいればよいのです。しかし、人間はどうやって生きていくのか、人間は死ねばどうなるのか、人間はどういう具合で生かされているのだろうと、そういうことを考える人間にとっては、つまり知ろうとする者にとっては、面白くないところだったのでしょう。

 

お釈迦様がどうおっしゃっていたかということさえもわからないのです。

万巻のお経を読んでもわからない。

法然上人は南部北嶺の偉い学者にいろいろ聞いたと思います。

「お釈迦様は本当はどうおっしゃっていたのでしようか」

だれも答えがなかったと思います。

偉い学者でもだめなのかと、一所懸命探しに探し、ついに浄土三部経にいきあたります。そして浄土宗をお立てになる。

 

法然上人は「絶対他力」ということをお考えになった。偉大なる自然といいますか、宇宙といいましょうか。われわれ人間はそういう力に生かされているのだという思想がまずあります。そんなことをお釈迦様がお思いになったかどうかは別として、お釈迦様の悟りはその境地にあります。

お釈迦様は絶対他力の思想でもって阿弥陀様を信仰したわけではないのですが、お釈迦様の悟りの境地は絶対他力の境地なのです。

 

お釈迦様があれほど苦労して到達した悟りの境地に、信仰によって一挙に入れる道が、浄土門ですね。浄土門の得心者は、悟りの境地に入ることができる。このことはまたあとで申し上げますが、その道筋を開いたのが法然上人であり、その偉大さは禅宗を考えてみることでよくわかります。

 

禅宗を始めたのは達磨大師です。

この方はインド人で、インドに住みながら法然上人と同じ疑問を持ちました。

お釈迦様はどういう方で、どういう具合に悟られたのだろうと。そして万巻のお経はうそは書いていないにしろ、お釈迦様そのものではないと考え、ひたすら探求された。

そうして到達したのが禅でした。

文字を見ず、お経をあさることもしない。つまり頭で入るのをやめ、禅を究めることでお釈迦様の悟りに近づこうとしました。巨人ですね。

法然上人が人類が持った宝であるように、達磨大師も偉大な宝物です。

ところが実際問題として、達磨大師やその他の、まれに見る禅の天才ならともかく、普通の人ではなかなか難しいところがある。悟りに到達するどころか、逆戻りするような感じです。

野狐禅(やこぜん)とはよく言ったものですね。