『言葉につける薬』ー呉智英
●何を斜に構えるのか?-②
【ある新聞の”歌壇”に次のような投歌があった。】
※斜に構え笑顔やさしきポスターの国を
憂うる目のありやなしや
選者は評として、「正答の選択肢のないような今回の選挙に、候補者の笑顔のむなしさが目につく」とい書いている。
ここに見られるように、「斜にかまえる」を、ものごとの真正面から取り組もうとせず、皮肉っぽい態度で臨む様子を言う言葉として使う人がふえてきている。例えば、若者に、「人生の充実感は?」と問いかけたとする。
若者らしい生真面目な答えが返ってくると思いきや、彼はこう答えた。「人生の充実感?そんなもの今時あるわけないでしょう。そうねえ、あるとすれば、パチンコで大当たりが出た時ですかねえ。」
こういう態度が「斜にかまえた態度」だと思っている人が多い。しかし、これはまちがいである。
「斜にかまえる」というのは、刀を斜めにかまえる、すなわち刀を抜いて正眼にかまえることで、相手の出方に対し、
十分な身構えをすることなのだ。だから、人生の充実感とは?と問いかけられた場合なら、相手の質問の真意を読み取るように注意深く慎重に答えるのが、「斜にかまえる」ことなのである。皮肉な態度とは、全然ちがっている。
先程の短歌だと、本来の意味では、選挙ポスターの中に、刀を正眼にかまえたようにしながらもやさしく微笑む立候補者の顔がある、という意味になる。「国を憂うる目のありやなしや」と問うのもおかしなことで、そういう候補の目は国を憂えているに決まっている。全体としての意味は通らない。
なぜこのような誤用が起きたのか?武士が刀を抜いて斜にかまえる光景など見たこともないし、想像さえできなくなったからである。そして生き残った「斜にかまえる」という言葉は真正面から取り組まないという意味だと誤解され、皮肉な態度を指す言葉だと思われるようになってしまったのである。しかし、その意味で使うなら「斜」は「しゃ」と読むべきではない。「しゃ」と読むのは剣術の用語として熟しているからである。
あえて言えば「ななめにかまえる」と読まなければなるまい。
●何を斜に構えるのか?-②
【ある新聞の”歌壇”に次のような投歌があった。】
※斜に構え笑顔やさしきポスターの国を
憂うる目のありやなしや
選者は評として、「正答の選択肢のないような今回の選挙に、候補者の笑顔のむなしさが目につく」とい書いている。
ここに見られるように、「斜にかまえる」を、ものごとの真正面から取り組もうとせず、皮肉っぽい態度で臨む様子を言う言葉として使う人がふえてきている。例えば、若者に、「人生の充実感は?」と問いかけたとする。
若者らしい生真面目な答えが返ってくると思いきや、彼はこう答えた。「人生の充実感?そんなもの今時あるわけないでしょう。そうねえ、あるとすれば、パチンコで大当たりが出た時ですかねえ。」
こういう態度が「斜にかまえた態度」だと思っている人が多い。しかし、これはまちがいである。
「斜にかまえる」というのは、刀を斜めにかまえる、すなわち刀を抜いて正眼にかまえることで、相手の出方に対し、
十分な身構えをすることなのだ。だから、人生の充実感とは?と問いかけられた場合なら、相手の質問の真意を読み取るように注意深く慎重に答えるのが、「斜にかまえる」ことなのである。皮肉な態度とは、全然ちがっている。
先程の短歌だと、本来の意味では、選挙ポスターの中に、刀を正眼にかまえたようにしながらもやさしく微笑む立候補者の顔がある、という意味になる。「国を憂うる目のありやなしや」と問うのもおかしなことで、そういう候補の目は国を憂えているに決まっている。全体としての意味は通らない。
なぜこのような誤用が起きたのか?武士が刀を抜いて斜にかまえる光景など見たこともないし、想像さえできなくなったからである。そして生き残った「斜にかまえる」という言葉は真正面から取り組まないという意味だと誤解され、皮肉な態度を指す言葉だと思われるようになってしまったのである。しかし、その意味で使うなら「斜」は「しゃ」と読むべきではない。「しゃ」と読むのは剣術の用語として熟しているからである。
あえて言えば「ななめにかまえる」と読まなければなるまい。
