『司馬遼太郎が語る日本』ー司馬遼太郎
●加藤清正の石垣について-③
私は子供のときに、
「大阪には二人の偉い市長がいた」という話をずいぶん聞きました。
大正2年に市長になったのは、池上四郎という人でした。この人が、一橋大学の前身である東京高商の教授だった関一(はじめ)という人をスカウトしました。
「助役になってほしい。あなたの好きなように大阪を変えてほしい」
関さんは「政策論」という、当時としてはユニークな学問の道にいらっしゃった。ベルギーに留学し、いよいよ政策論に磨きをかけたところでした。
関さんは考えたのだと思います。
「東京高商で講義するより、江戸時代からそのままといってもいい、古ぼけた、大阪という町をなんとかするほうが意味があるのではないか」
大正3年に助役となり、やがて池上さんと交代して市長となりました。
助役時代と市長時代を合わせると、ほぼ20年ぐらいになり、この時代に大阪はできあがり、その後は何もしていないに等しいぐらいです。
関さんは静岡県の生まれで、旧幕臣の子でした。やはり、旧幕臣のほうが偉いのかもしれません。大阪に呼んだ池上さんは会津藩士でした。
会津藩は一藩流罪のようにして、青森県の下北半島に移されます。コメもろくにとれないところで藩士たちは悲惨な生活を送ることになるのですが、池上さんもそうでした。食べることができなかった少年時代を送り、いろいろな苦労をして、人柄を見込まれて市長になった。しかし、自分では大阪市をどうすることもできないと考え、関さんを呼んだ。関さんは大阪を変えました。都市森林という理想の下、御堂筋をつくりました。その道幅の広さに対し、議会では
「飛行場でもつくるつもりか」
と言ってからかわれたそうです。しかし御堂筋の両側は並木になっていまして、大阪でいちばん景観の良いところではないでしょうか。
二番目にいい景観は中之島公園だと思いますが、それも関さんが整備して、さらに公設市場もつくった。御堂筋の下には地下鉄も走らせています。
当時から重々しい図書館が大阪にはひとつありましたが、各区に図書館をつくったのも関さんです。アメリカ風の市民図書館ですね。それから大学が必要だと考えた。
「帝国大学はあまりに空理空論だ」
と考えたかどうかは知りませんが、関さんは一橋大学の出身です。たいへん実際的な人であり、実際的な学問をさせたくて、いまの大阪市立大学をつくっています。
関さんはこうして土木を中心にして大阪を一変させ、近代都市にちょっと似たようなものにしたのですが、昭和10年に倒れました。葬式には市民7万人が集まったそうです。ずいぶん尊敬されていたのですね。
関さんは、「都市は人間のものであり、人間が住みやすい町でなければならない」という基本思想の持ち主でした。いまはやりの人権ということを、かなり早くから行っていた人でもありました。

●加藤清正の石垣について-③
私は子供のときに、
「大阪には二人の偉い市長がいた」という話をずいぶん聞きました。
大正2年に市長になったのは、池上四郎という人でした。この人が、一橋大学の前身である東京高商の教授だった関一(はじめ)という人をスカウトしました。
「助役になってほしい。あなたの好きなように大阪を変えてほしい」
関さんは「政策論」という、当時としてはユニークな学問の道にいらっしゃった。ベルギーに留学し、いよいよ政策論に磨きをかけたところでした。
関さんは考えたのだと思います。
「東京高商で講義するより、江戸時代からそのままといってもいい、古ぼけた、大阪という町をなんとかするほうが意味があるのではないか」
大正3年に助役となり、やがて池上さんと交代して市長となりました。
助役時代と市長時代を合わせると、ほぼ20年ぐらいになり、この時代に大阪はできあがり、その後は何もしていないに等しいぐらいです。
関さんは静岡県の生まれで、旧幕臣の子でした。やはり、旧幕臣のほうが偉いのかもしれません。大阪に呼んだ池上さんは会津藩士でした。
会津藩は一藩流罪のようにして、青森県の下北半島に移されます。コメもろくにとれないところで藩士たちは悲惨な生活を送ることになるのですが、池上さんもそうでした。食べることができなかった少年時代を送り、いろいろな苦労をして、人柄を見込まれて市長になった。しかし、自分では大阪市をどうすることもできないと考え、関さんを呼んだ。関さんは大阪を変えました。都市森林という理想の下、御堂筋をつくりました。その道幅の広さに対し、議会では
「飛行場でもつくるつもりか」
と言ってからかわれたそうです。しかし御堂筋の両側は並木になっていまして、大阪でいちばん景観の良いところではないでしょうか。
二番目にいい景観は中之島公園だと思いますが、それも関さんが整備して、さらに公設市場もつくった。御堂筋の下には地下鉄も走らせています。
当時から重々しい図書館が大阪にはひとつありましたが、各区に図書館をつくったのも関さんです。アメリカ風の市民図書館ですね。それから大学が必要だと考えた。
「帝国大学はあまりに空理空論だ」
と考えたかどうかは知りませんが、関さんは一橋大学の出身です。たいへん実際的な人であり、実際的な学問をさせたくて、いまの大阪市立大学をつくっています。
関さんはこうして土木を中心にして大阪を一変させ、近代都市にちょっと似たようなものにしたのですが、昭和10年に倒れました。葬式には市民7万人が集まったそうです。ずいぶん尊敬されていたのですね。
関さんは、「都市は人間のものであり、人間が住みやすい町でなければならない」という基本思想の持ち主でした。いまはやりの人権ということを、かなり早くから行っていた人でもありました。
