『知的生活習慣』-⑦ 外山滋比古

●論文というもの

 

イギリスの詩人ロバート・グレイヴズが、詩作では食っていけないのは、昔も今も変わりがない、身過ぎ世過ぎのために心に染まぬ仕事もしなければならないが、下手なことをすると肝心な詩が書けなくなってしまう、とのべているのを読んだことがある。

 

グレイヴズはいろいろな職業を詩人に危険だとしてあげているが、よくやる、出版社や放送局づとめも感心しない。もっと悪いのは教師だとあって、教師はつらい思いをしなくてはならない。なぜ出版社や放送局がいけないかというと、妙な形で創造エネルギーを満足させられるからである。もし、そういう所へ勤めるのだったら、編集関係の仕事は避けて、郵便物の発送係かなんかにしてもらうといい、といった忠告がおもしろい。

 

教師は知りもしないことを知ったかぶりをしないと毎日が過ぎていかない。これほど創造にとって有害なことはすくなくないのだから、詩人たらんとするものは教職に近づかぬことだ。そういうグレイヴズの意見を読んで、やがて思い当たることにぶつかった。

 

このごろは外国語文学科の学生に卒業論文を課さない大学がふえてきたが、ひと昔、ふた昔前には、どこの英文科でも論文を書かないと大学を出られなかった。戦前は卒業論文と呼ばれていたものが、戦後いつの間にか”卒論”と手軽にいわれるようになったと思ったら、さきのように方々の大学で姿を消し始めた。

 

学生に論文を書かせるのだから、指導しなくてはならない。外国文学では言葉を何とか読みこなすのにひどく時間と労力をとられるから、論文めいたものすら書く余力が残らないことがすくなくない。何年に一篇でも書けたら奇特というべきである。かっては論文などひとつもなくても大学者でありえたものだが、アメリカ流の業績主義(これをPublish or Perish「論文を発表せよ、しからずんば、亡びよ」というらしい)が渡来してからは、書いたものがないと、何かにつけて都合が悪い。泣く泣くではないにしても、渋々”論文”を作らなくてはならなくなったというのが正直なところである。とても胸を張って我に続けなどといえるわけがない。Simplog