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”杉浦 重剛について-②”
●小島 直記

 ロンドンに留学した杉浦 重剛は、病気のため、明治13年に帰国した。26歳のときである。小石川伝通院境内の別院、貞照庵に寓居した。貞照庵には、杉浦の同志が集まり、当時の新知識の”梁山泊”の観を呈した。『東洋学芸雑誌』がここで案出せられたのみならず、雑誌『日本人』も、新聞『日本』もここで案出せられた。東京文学館を起こす相談も、ここでまとまった。熊田活版所をおこす相談も、ここで定まった。

 杉浦の薫陶を受けた「古島一雄」が新聞記者として、明治、大正期の大物たちを、ほとんど完膚なきまでにやっつけた。ところが彼が決して悪口を書かなかった人が少数おり、特に賞めあげた人物が四人いる。杉浦重剛、頭山満、三浦梧楼、犬養毅である。四人の寸評を求められて、

★直言断行は観樹也

★立言即行は木堂也

★聖言躬行(きゅうこう)は天台也

★不言実行は立雲也

と書いたことがある。観樹は三浦梧楼、木聖は犬養毅、天台(道士)は杉浦重剛、立雲は頭山満の雅号であった。


#小島直記 #帝王学 #頭山満