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”三島由紀夫の筋肉” ●野坂昭如

はじめて”三島由紀夫”を見たのは昭和25年秋、室町の三越劇場。せまいロビーで。肩にパットの入った淡いブルーの背広、髪はリーゼントスタイル。当時25歳の三島の表情は、やはり生気に乏しく、といって文学青年風陰気貧相な印象でもない。前年、「仮面の告白」により一躍文名を轟かせ、続けて「愛の渇き」を発表、これも好評で注目の人気作家には違いなかった。ロビーに集う連中の多くが三島に注目。彼はまた十分にこれを意識、ことさら派手やかなふるまい、例の豪快な笑いを遠慮なくひびかせていた。

幼年期、青少年期を通じ、常に自らのひ弱さを思い知らされていた三島が、まずボディビルにとり憑かれた。後にボクシング、剣道、空手も手がけるが、すでに歳を取りすぎていた。剣道も5段までいったが、さして実力は伴わなかったらしい。長く続けた剣道も、防具をつけ、つまりは変身するわけで、この点だけ見れば、筋肉によって鎧うボディビルと似ている。

出世作の「仮面の告白」の「仮面」について、いろいろと言われる。彼の一生は”スカラベ”甲虫の一種にたとえられもする。つまり剣道の面もそうだが、常に本性を隠したい、しかし、隠すべき本性が何かわからない。これは当たり前のことで、本性なるものを錯覚にしろつかまえていたら小説など書かない。一方手探りしつつあやふやに隠そうという空しい努力こそ、小説といえよう。

三島については、無意識のうちに、首が気になり、死の一週間前、見受けた時、頭と胴体がまことに危っかしい感じ、彼は筋肉による鎧の限界を知り、また、この二つの部分の乖離を自覚、その故の、割腹、介錯とも考えないが、「仮面」を脱ぎ捨て、肉体的本性即ち”ハラワタ”をさらけ出してみせた。

遺作となった「豊饒の海」について、きちんとした批評、分析はされていない。ただ、「何もない所へきてしまった」という最終章の一節は、痛切な三島の思いである。

はじめから何もないのが人間であり、そのあがきを描くのが小説家、秘めて当然の述懐である。筋肉をどう増加しようが、包装紙の過剰と差はない。三島は「筋肉」を、言葉の代わりに用いようとした、所詮、無理と承知で賽の河原に石を積む如く続けた。そのストイシズム、礼儀正しさ、徹底した時間厳守、友人関係における間合い、一つでも崩せばバラバラになってしまう怯えを常に抱いていた。