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”公と私-②” 司馬遼太郎

 清末にも同じような現象がおこった。太平天国の乱という一大流民さわぎがおこって、この勢いの前に官軍がじつに弱かった。このさわぎに対して、官僚の”曽国藩”が故郷で私兵を募り、太平天国軍を破った、この義勇軍が”湘勇(しょうゆう)軍”である。また、”曽国藩”の弟子である”李鴻章”が、故郷で”淮勇軍”を編成し、協力して内乱を収めた。

”曽国藩”はのちに”李鴻章”に”湘勇軍”をゆずった。これにより、”李鴻章”の私兵である”淮勇軍”が強大になり、武装も洋式化して清朝最大の陸軍に成長した。本質的には、清朝の国軍ではなく、”李鴻章”の私兵だったのである。彼の権力は、圧倒的にその上に成立していたのである。

中国革命を成功させた紅軍も、もとはといえば、体操教師出身の”朱徳”と”毛沢東”の私軍から出発している。それが革命成立後、人民解放軍という、国軍になった。ただし、各軍の軍長たちの意識は、自分の管轄の軍を”私”として見る感覚がつよい。だから、自分の息子や娘婿、甥などを要職につけた。軍を私物化していた。

軍だけでなく、高級幹部のあいだにも、同様な古代以来の”私”がはびこっていた。それで、世界と同様に普遍化した「公」という価値基準を持った人々が”天安門広場”に集まったのである。

人々は---高級幹部たちは、”公”であれかし、と願っている。これに対し、”私”を守ろうとする高級幹部もまた、”私益”を守るために懸命にならざるをえない。そういうわけで、”私益派”が国権を握り、あらたな”公”の感覚を共有する人々を”反乱分子”として締め上げたのが”天安門事件”である。


#公私 #李鴻章 #太平天国