”『走る意味』-③”-金 哲彦
”命を救うランニング”
二年生になり、東伏見の合宿所を出ることになり、中村監督の命令で、監督の家の近所の千駄ヶ谷周辺に引っ越した。当時千駄ヶ谷に住んでトレーニングしていたのは、エスビー食品の選手たちと、早稲田の中でも選抜された選手たちだけだった。そこに金さんも呼ばれた。『千駄ヶ谷組』は、エリート・ランナーの意味でもありました。
東伏見の合宿所から持ってきたものは、ひとり分の布団とテレビ、教科書とランニングウェアとシューズ、それだけです。床は畳でしたが、なぜかベッドに憧れがありました。でも、ベッドを買うお金なんかないので、酒屋でビール瓶のケースを買ってきて、ひっくり返して六つほど並べました。そのケースの上に拾ってきた板を敷いて布団を敷き簡易ベッドを作りました。初めて買った家具は980円の三段ボックス、それが本棚です。練習などの連絡用に先輩から電話の権利を3万円で買いました。自分専用のダイヤル式の電話に、少し興奮しました。
合宿所と違い食事は自炊しなければなりません。食器と包丁など最低限の道具は買いました。ガスコンロひとつで、こたつなく、寒い日は布団にくるまっていました。兄からもらったガスストーブがひとつありましたが、ガス代がもったいないのであまり使いませんでした。
当時の『千駄ヶ谷組』は中村監督の家の半径100m以内にいなければいけないというような暗黙のルールずあり、監督が連絡もなく抜き打ちで部屋に来たりするので、毎日が緊張感でいっぱいでした。
二年生になって一般部員とは違う特別メニューの練習になりました。練習もヱスビー食品の選手たちと同じ時間帯。練習前に二、三時間、中村監督の話があり、それから練習です。練習が終わると近くの銭湯に行き、もう一度監督の家に戻ってそこで皆で食事です。監督の話を夜まで聞いて、部屋に帰ってそのまま寝る、そんな毎日でした。このころはとにかく長い距離を走り込みました。30㎞走とか、40㎞走は頻繁にやりました。そして長い距離を走った翌日は、インターバル練習や5㎞くらいのタイムトライアルを数本やります。二年生になってからは、箱根駅伝の前だけでなく、20㎞のタイムトライアルを年間を通じて何度かやりました。
ハードな練習でしたが、授業中疲れて寝てしまったということはありませんでした。自炊なのでろくなものを作れませんでしたが、たくさん食べました。当然、夜は早く寝たし、とにかく大学時代は遊んだ覚えがまったくありません。1980年代はバブル全盛期で華やかな時代でしたが、お金もないし、遊ぶ心の余裕もないので、遊んだという記憶がほとんどありません。たまに、先輩や仲間と飲み会をやるくらいで、女の人とはまったく縁がありませんでした。
